Idiot's Delight

煩悩まみれで気ままに日々を流しております。

映画『ブゴニア』 ラストの考察※ネタバレあり

『ブゴニア』観ました。面白いですね。こういう読み解く余地がある作品大好きです。いろいろ解釈できるのですが、私なりの解釈を書き残そうと思います。

 

映画『ブゴニア』公式サイト

 

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

 

この映画のラストシーンについて、私は「ミシェルの夢」なんじゃないかと思っています。

 

救急車で目覚めたミシェルは、実はアンドロメダ星人の皇帝で、地球人を見限って虐殺するシーンで映画は終わります。この部分が、ミシェルの夢だと考えるのです。

 

理由としてはいくつかありますが、簡単にいうと「アンドロメダ星人云々がテディの想像通り過ぎる」点でしょうか。

 

例えば宇宙船。

 

ミシェルが帰る宇宙船の姿が、テディの模型に酷似しています。

これに関して「テディが正確に宇宙船の姿を把握していた」と見ることも出来ますが、彼にそこまでの能力があるようには思えません。

 

では、どういうことか?

 

テディの宇宙船を見て影響されたミシェルがみる夢と考えれば辻褄が合うのではないでしょうか?

 

つまり救急車で目覚めたミシェルは実は目覚めておらず、アンドロメダ星人として宇宙船に帰っていくのは彼女が見ている夢に話という解釈です。

 

夢オチか!

 

と思われるかもしれませんが、この解釈でゾッとするのは、もしミシェルの夢が彼女の本心を反映しているものだったら? ということです。

 

ミシェルは大企業のCEOとして描かれています。雑誌の表紙を幾つも飾っていたので、グローバル企業的な大きな会社かもしれません。

 

もしそんな企業にトップが人間を見限ったら? ラストの虐殺は実現可能かも。

ある意味で現代社会の歪みを表現しているのかもしれません。

 

(テディの頭がぶつかって、彼の思想が感染したとも読み取れます。その場合、卵が先か、鶏が先か)

 

もちろん本当にミシェルはアンドロメダ星人だったというオチとも読めます。ただ私は上記のように解釈しました。

 

そして何と言いますか、「しっかりしないといけないなあ」と感じる次第でございます。

 

今回はここまで。それではまた次回

映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』感想 恋愛残酷物語

観てきました。面白かったあああ。

ので、感想を書きたいと思います。

 

※以降、作品のネタバレを含みますのでご注意ください。

gundam-official.com

 

ラストでガンズアンドローゼスの「Sweet Child O'Mine」が流れる中、にやにやして感じていたのは、「うわぁ残酷だなぁ」でした。

一見するとハッピーエンドみたいに見える終わり方ですが、私には「残酷な恋愛物語」のように思えたのです。

なぜそんなふうに見えたのか? ざっくり三つのポイントで説明したいと思います。

(ちなみに原作未読です。おかしかったらごめんなさい)

 

残酷ポイント① やべえ!マブいナオンが現れた! ハサウェイくんの仮面舞踏会

前作「ギギ」関連でやらかしたハサウェイくんは反省しています。しかしどうにもギギに惹かれるハサウェイくんは本カノのケリアとか、ちょっとした生活音が気に障るくらい疎ましく思えてしまいます。(咀嚼音が大きいのはそういうのを表す演出で、クチャラーだから嫌いというわけではないでしょう)

ちょっかいを出されるのが、鬱陶しいのでしょうか? そういうわけでもないようです。

組織の他の女性たちも、水や飴などハサウェイくんに差し出したりしますが、「ありがとう」なんて平気の平佐で受け取ったりしています。

これは好意対象の違いに起因しているのだと思います。

組織の女性たちは、「マフティーとしてのハサウェイに好意を向けているわけです。「マナフィー」はいわばハサウェイの理想像みたいなものですから、その仮面を被っているかぎりカッコよく振る舞うことができるのでしょう。

ただケリアは、「ハサウェイ」自身に好意を向けています。ハサウェイにとって「ハサウェイ」自身というのはクェスを救えずレーンを殺してしまうクソ野郎なので、ここに好意を向けられると辛いものがあるのでしょう。

つまり出先でちょっかい出される限りでは仮面舞踏会でカッコよく決められるけど、家(劇中では部屋ですが)で待ち構える女は疎ましい、というところではないかと思います。

そしてギギは「マフティー」という仮面を見破って「ハサウェイ」を見つけた女性であります。

それぞれの違いとして、組織の女性たちは「マナフィーの仮面しか見ない」。ケリアは「ハサウェイを見て、マナフィーは偽りだと拒絶している」。ギギは「マナフィーの仮面ごしにハサウェイを見ている」という感じでしょうか。

より本質的、かつ包括的に自分を見てくれるギギという女性だからこそ、ハサウェイは惹かれてしまうのかもしれませんね。

……といえれば、少しは美談ちっくなのですが、そうではないところが残酷なところだと思います。このような美談が成立しないと考える理由は主に二つ。一つ目は「ニュータイプ能力」、二つ目は「ギギの容姿」です。

ニュータイプ能力」に関していえば、ハサウェイもギギでさえ、強い能力は所有していません。それは劇中でも「ニュータイプ音」(フレクサトーンの音)が全く生じないことからも表現されているように思われます。つまりこの二人に関して、アムロララァのような内面的感応は生じていないことを表現していると思われます。

次に「ギギの容姿」です。アムロララァが感応し惹かれ合うことには「人種の壁を超えて」というメッセージが含まれ、それが「内面の共感」を際立たせているように感じられます。しかしギギの容姿は「白人、金髪、若い、美人」など、男なら多くが惹かれてしまう容姿をしているのです。これはアムロララァの関係とは反語的に、内面的に惹かれあっているわけではない、ということを表現しているのではないでしょうか?

これをハサウェイくんは「肉欲」みたいに表現していたりします。

ややこしい言い回しを使ったりしますがハサウェイくんの気持ちを簡単に書くならば、「やべえ! 今までのことがどうでもよくなるくらいマブいナオンが現れた。どうしよう?」というところではないでしょうか?

主義主張、トラウマ、贖罪など、諸々全部が吹き飛びそうなほど惹かれてしまうというところが残酷なポイントだと思います。

残酷ポイント②  揺れる想いで災厄を振り回し系女子のギギ

そんなハサウェイくんに懸想されているギギ・アンダルシア。彼女といえば「セルフィッシュ(自己本位)で構ってちゃんだがバカは嫌い」みたいな人物として描かれています。本作でも「模様替え」のシーンは彼女のキャラクターがよく表現されているシーンでしょう。

そんなギギさんが厄介なのは彼女の「幼さ」にあるような気がします。

劇中でギギさんは三人の男に囲まれています。それは「お金をくれる人(パトロン)」「便利で楽しませてくれる人(ケネス大佐)」「気になる人(ハサウェイ)」です。

ギギはこの三人の間を、まるで分裂症のように移り気で行ったり来たりを繰り返します。

アデュー(アディオスではなく、アデュー)とパトロンに別れを告げたと思ったら、ケネス大佐のいまカノを追い出して、その地位を独占します。

かと思ったら、「私、ファザコンかも?」とか思って、自分の部屋にやってきたケネス大佐をフォーマルな服装で出迎えます。さも「私にその気はありませんから」とでも言いたげな雰囲気です。

かと思ったら、エアーズロックにいるだろうハサウェイの元に朝食を詰め込んだバスケットを携えて、彼の命を狙う軍隊と共に向かうのです。

このような行動に起因するのが、ギギの幼さにあるように思います。ケネス大佐に身を寄せつつ、「ファザコン」と自覚したところでフォーマルな服装を着るのは、「決めた男に操を捧げる」という無垢な倫理観の象徴とも取れるでしょう。また彼女の行動の全体を通して核となる行動指針が見受けられません。金のため、快適のため、恋のため、どれのために生きていくのか決めきれていないので、その場しのぎの対応を繰り返しているようにも見えます。

その圧倒的な魅力で周囲の男を虜にするだけ虜にして、特にしたいことがまだ決まっていないという生殺しに付き合わなくてはいけないというのがギギという女性の残酷なところだと思います。

残酷ポイント③ そんな二人が出会ってキスすると?

ラスト、ペーネロペーとクスィーとのバトルでハサウェイくんはアムロの幻想を目にします。ジークアクスでいうところの”キラキラ”みたいな場所ですが、ハサウェイくんしかいないことを考えると、あれは彼の心象風景でしかないのでしょう。(それもまた残酷ですね)

そしてハサウェイくんはマフティーとしての仮面を被り、トラウマに打ち勝ちます。自分とは向き合わず飽くまで仮面でやり過ごす選択をしたというのもやり切れないところが残ります。

トドメを刺そうとしたハサウェイくんの前にギギが姿を現します。ギギをクスィーの手で持ち上げて、コックピットから乗り出して、「こっちに飛び込んでこい」的なセリフを吐くハサウェイくん。(三島の『潮騒』かな?)

ギギの姿を見ただけでハサウェイくんの仮面(マフティー)は剥がれてしまいます。

そしてハサウェイくんの胸元にギギは飛び込みます。(浜村淳の映画紹介ならここまで紹介するでしょう)そして二人はキスするのです。

キスしたらどうなるか? 物語がそこで終わってしまうのです。

惹かれあっていた二人がようやく結ばれたハッピーエンドと見ることもできますが、私にはそうは感じられませんでした。

残酷ポイント①②を踏まえると、「決めていたことを肉欲で捨ててしまいそうなハサウェイくん」と「まだなにも決めていないが肉欲を掻き立てるギギさん」が肉欲に身を委ねてしまった、みたいに見えて残酷だなと感じてしまったのです。

だからハッピーエンドではなく、まるで悲劇へのプレリュードといった印象を受けたのです。

エンディングテーマの「Sweet Child O'Mine」のフレーズが胸に突き刺さる想いでした。

Where do we go?

Where do we go now?

Where do we go?

これからどうする?

これから俺たちどうしようか?

これからどうすれば?

こういううがった(誤用の意で)見方をしなくても、映像表現としてかなり新鮮で面白いと思いました。内容はガンダム作品の履修が必要ですが、観ていて面白い作品になっていると思います。

 

以上、「キルケーの魔女」の感想でした。それではまた次回。

 

※補足※

エアーズロックにギギはハサウェイくんの時計を持ち込んでいる件について。

「この時計が、ギギがハサウェイに惹かれていてた証拠ではないか」という意見もあると思います。

ただ私は「いや身につけるアクセサリー以外を持ち込むなんて、”捨てる”ためじゃない?」と思ってしまう人間なんです……。

挫折と復活だけじゃない:映画『シャイン』が面白かったで評

冷や汁」が好きなんです。

夏限定で出してくれるところが多いのですが、限定の「夏」が短すぎる! せめて九月いっぱいは出してくれ! そう願ってやまない毎度の夏。来年こそは……。

 

さて今回は映画『シャイン』が面白かったので語りたいのです。1996年の映画ですが、今にも通じる普遍性があると思いますです。

 

シャイン : 作品情報・キャスト・あらすじ - 映画.comeiga.com

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

“挫折と復活”だけじゃない! 注目すべきポイント

本作は実在のピアニスト「デイヴィッド・ヘルフゴット」の半生をモデルにした物語です。

ja.wikipedia.org

実際のデイヴィッドさんはピアノの神童として知られますが、ある時期よりノイローゼで精神病院に収容されます。映画でも(いろいろ変更されていますが)基本的に事実に基づいているため、「天才ピアニストの挫折と復活」を描いた物語のように見えます。

しかしこの映画は「それだけじゃない」と思うのです。

この映画の「父親」と「水」に注目すると、異なる物語が浮かび上がってきます。

父親は悪役か?

この映画、父親が悪役みたいに見えます。

デイヴィッドの才能に気づき、指導を申し出たプロを断ってしまいますし、留学も破談にしてしまいます。

まるで利己的にデイヴィッドの才能を独占しようとしているみたいに見えます。

 

しかしこの映画の真の悪役は、父親ではないと思います。

なぜなら、デイヴィッドの挫折と父親が無関係だからです。

 

この映画のデイヴィッドの挫折とは、「精神を病んでしまう」ことだと思います。しかしこれは父親の元を去った後に起きたことで、父親とは無関係です。

 

また「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番」も、それを象徴しているでしょう。

ja.wikipedia.org

この曲は、デイヴィッドが精神を病んでしまう原因となった曲です。留学先で猛特訓を行なった結果、消耗したデイヴィッドは倒れてしまいます。しかしこの曲、実は父親の元でも挑戦しています。そしてその時、デイヴィッドは不調になることなくコンテストを終えています。

これを留学先の指導者のように苛烈な指導ができない父親の能力不足と見ることもできますが、デイヴィッドを気遣った結果それほど追い込むことができなかったと見ることもできると思います。(事実、父親の元ではコンテストに優勝できていません)

このように考えると、デイヴィッドの身を案じる父親像というものが、浮かび上がってきませんか?

では真の「悪役」とはなんでしょうか? それを考えるために重要なのが、水の演出です。

水の表現するところ

この映画、やたらと「水」の演出が登場します。

冒頭から「土砂降り」のシーンですし、精神を病んだ後のデイヴィッドは、やたら「バス」「プール」「海」など、水に浸かります。

これほど「水」が出てくるには、何かしらの意味があるに違いありません。この映画では「水」は何を象徴しているのでしょうか?

それは映画の中の、とあるシーンを見ればわかると思います。それは「父親が留学先を破談させた後、風呂場で行われる父子の対話シーン」です。父親は家族のためとデイヴィッドを宥めますが、留学を破談されたデイヴィッドは、父親への講義としてバスタブの中で「粗相」をしてしまいます。これに激昂した父親は、持っていたタオルで、デイヴィッドを強く打ち据えます。バスタブの中で「水」に浸かりながら、黙って耐えるデイヴィッド。そのシーンは壁に飛ぶ「水」しぶきを映して終わります。

このシーンに象徴されるように、この映画では「水」は「罰(罪の在処)」を示しているのではないでしょうか?

そう考えると、冒頭の土砂降りも、精神を病んだデイヴィッドが「水の中=罰の中」にいると考えると、物語的な整合性を感じることができます。

では、デイヴィッドは「なんの罪」で、そんな「水」に塗れた半生を過ごしているのでしょうか?

デヴィッドの犯した罪と罰

この映画、やたらと水のシーンが出てきますが、精神を病む前には、それほど登場してはいません。時系列は少し入り組んでいるのですが、「水」の演出が頻出するのは、精神を病んだ後です。

ではその境目はどこなのかと考えると、デイヴィッドが「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番」を演奏するシーンだと思います。このシーンで、デイヴィッドは汗で「水」を被ったように濡れているのですから。「挫折」のきっかけもこの曲なので、ここに真の悪役が潜んでいるように思われないでしょうか? もちろん、「ラフマニノフが悪い!」なんて、言うつもりはありません。

この映画の真の悪役であり、「水」(=罰)が象徴する罪とは、「自分勝手」だと思います。

デイヴィッドが留学は親の反対を押し切って行われましたし、ラフマニノフを選曲したのはデイヴィッド自身です。

彼はピアノに打ち込んでいるように見えますが、それは同時に「自分勝手にピアノばかりしている」ということでもあります。

そのことを象徴するのが「小説家がくれた手袋」でしょう。小説家はデイヴィッドの恩人に当たる人物で、留学に際して「ロンドンは寒いから」と手袋をデイヴィッドに贈ってくれます。

しかしデイヴィッドはその手袋に挟みを入れてしまいます。それはピアノの練習のために指先が邪魔だったから。

これでも「それほどまでにピアノに打ち込む天才」みたいに見えますが、「恩人からもらったものに躊躇いもなく傷つけている」と見ることもできると思います。

このようにデイヴィッドは「ピアノの天才」ですが、同時に「好ましからぬ人物」としても描写されているのです。

まとめ:この映画のもう一つの物語

このように見ていくと、この映画が「天才ピアニストの挫折と復活の物語」だけを描いているものではないと考えることができませんか?

それと同時に、この映画は「罪と罰」、つまり「贖罪の物語」を語っているのだと思います。だからこそ普遍性があり時を超えた感動を呼ぶ作品なのだなと思うのです。

興味を持たれた方はぜひご視聴を。最終的にデイヴィッドは「どうなるのか」? そこにはとても感動的なシーンが広がっています。

 

2025年10月現在、映画「シャイン」はU-NEXTとHuluで視聴可能でございます。

U-NEXT

Hulu

 

(最期に、私が一番好きなシーンの紹介。それは精神を病んだデイヴィッドのもとに父親が尋ねてきて去っていくシーンです。父親が去る時、「雨が止んでいる」んですよね。罰とは「許し」とも同じことなので、「水にも濡れない」父親というは残酷で切なくなります)

 

以上、映画「シャイン」面白かったで評でございました。おそまつさまです。ここまで読んでくれてありがとうございます。

 

それではまた次回、何かしらの作品で。

アニメ『おそ松さん 第4期』が面白い!:白Tシャツに見る”脱構造”への意欲

厳しい夏が過ぎ、いきなり冷え込みましたね。

最近、謎の腹痛で苦しみました……。

体調を崩しやすい時期ですので、みなさまもご自愛くださいませ。

 

さて今回はおそ松さん 第4期」が面白かったので、語ってみたいのです。

osomatsusan.com

 

※以下ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

白一色の異常な装い

今回のおそ松さんは一味違う。なんてったって全員、白Tシャツを着ているのですから。

考えても見てください。例えば「ミュータントニンジャタートルズ」で、亀たちの目隠しが白一色になったなら。誰がレオナルドか分かりますか?

(最近、U-NEXTにシリーズ作品追加されたみたいです)

 

事実、今までの「おそ松さん」も、衣装の色分けでキャラの見分けを補強していました。

しかし今回は、白一色

私はここにおそ松さん』既存構造から脱却しようとする意志を感じました。

「もうキャラじゃない!」そんなメッセージを受け取り、興味惹かれて一話を視聴しました。

 

一話に込められたメッセージ

一話、明らかに今までと違うんです。

今期の六つ子初登場シーンも、バストアップになるが、セリフはなく呻くだけ

今までなら「紹介」するか、少なくとも(紹介シーンなのに紹介していないというギャグと分かるように)「ツッコミ」は入れていたと思います。

そういう「解りやすい演出」が為されていないのです。もちろんこのシーンだけではなく、その他のシーンも同様。

この一話には、「今期は”読んで”(解釈して)欲しい」というメッセージが込められていると感じました。

ベタからも脱却。新たな挑戦への意志を感じます。

 

読むことで見えてくる新たな「おそ松さん」ワールド

今期は解釈が重要。例えば「第2話 スイカ星人」について。

夏と言えばスイカ! ということで、どうしてもスイカが食べたくなった6つ子が手分けしてスイカを調達するため奔走。そんな中、とある使命を帯びた何者かが宇宙から地球へと訪れる。彼らの目的とは!?

(公式サイトより引用)

 

ぱっと見は典型的な異種交流譚(常識はずれなおそ松をきっかけにスイカ星人と仲良くなる)に見えます。

しかしイカ星人が母星から地球にやってきた理由を考えれば、それだけではないことがわかります。

イカ星人が地球に来たのは、「母星をスイカで埋め尽くして栽培出来なくなったため」でした。

これは「欲望のまま環境を破壊している」と抽象化するならば、「スイカの栽培」=「地球の環境破壊」のメタファーとして受け取ることも可能です。

 

で、あるなら「スイカの栽培」を促し協力するということは、異種交流譚として「かわいそうな異星人を助ける」以外にも、意味が含まれているような気がしませんか?

 

またラストシーンも秀逸なのですが、2話のラストは「縁側でスイカを齧りつつタネを吐き出す六つ子たち」というシーンで終わります。

異種交流譚としては異星人を助けた対価としてのスイカを楽しんでいるように見受けられますが、それであれば「タネを吐き出す」は不要なシーンということになります。

しかし「スイカの栽培」=「環境破壊」のメタファーとして考えると、「タネを吐き出す」ことは、「新たなスイカの栽培」につながる行為であり、そのまま「環境破壊」としても考えられます。

よって2話ラストは「スイカを齧る穏やかな日常」の裏に、「欲望のままにスイカを喰らい、無自覚に環境破壊をしている」というアイロニカルなユーモアとしての批判が込められた構造になっているとも解釈できるのです。

 

そう考えると、面白いと思いませんか?

 

このような感じで「おそ松さん 第4期」、とても楽しく視聴しました。

お気に入りは「4話 縁日」と「10話 イヤミとひっこみじあん星人」。どちらも相当やばいことに触れていると思いますです。

 

皆様はどう解釈されましたでしょうか?

もし「こうだ!」ということがあれば、コメントいただければ嬉しい所存でございます。

 

それでは、(いつになるかはわかりませんが)また次回。

アニメ『機動戦士Gumdam GQuuuuuuX』感想

※以降ネタバレ含みますので、ご注意ください。

 

久しぶりにアニメ完走しました。『機動戦士Gumdam GQuuuuuuX』(ジークアクス)面白かったですね。完走したので、感想をば。

 

本作は「ガンダムらしさ」というものに、コペルニクス的転回で解答しているのが面白いとは思います。『機動戦士ガンダム』(初代)以降の後継作では、「政治」とか「戦争」を「ガンダムらしさ」と解釈して、そこを中核としているように見受けられます。

しかし「政治」や「戦争」に対して、リアリティが欠けている世代では、それらを扱いきれずにどうしても空回っているように見られました。

その点、本作は潔い。「ガンダムらしさ」に対しての解答を「ガンダムでしょ?」で返しているのですから。

ガンダムらしくするなら、ガンダムを出せばよい。

なんと単純明快な解答でしょう!

 

ここに政治・戦争などの、国家的集団活動における自己同一性という問題から、趣味嗜好による個人規定の問題への転嫁を感じます。

 

これはタイトルにも表れているように感じました。私は「ジークアクス」は「ジークジオン」からの変形ではないかと想像しております。

ジーク」はドイツ語で「勝利」を意味します。

つまりジオンという集団での勝利ではなく、「アクス(斧)」という個人武器に対しての勝利を望むという意味かなと思ったりしたり。

するとなると、ジークアクスがこういう作品になったのもうなづけます。

 

僕らはもはや「政治」や「戦争」より、「ガンダム」に夢中になってしまう。

そういう割り切りや諦観が、この作品のキモではないでしょうか?

 

以上、勝手な感想でした。

臨むべくなら、全話劇場上映などやってもらいたいものでございます。

モビルスーツ戦闘けっこうカッコよかったんですがTVスクリーンスケールだと、「すごい!」より「細かい!」が先に来て惜しいなあと感じましたので。

 

それでは、また次回。

映画『侍タイムスリッパー』感想

AmazonPrime特典の追加されたきっかけで視聴。

気になっていたが、劇場では見れなかったので嬉しい。

 

面白いという話題は聞いていた。なので期待していた。が、最初のシーンで当惑。

知らない俳優、平凡な構図、テンポも悪い(カットが長い)、音も安っぽい。

ありていに言ってしまって、とてつもなく「地味」!

これが本当に話題作なのか? 自分の目を疑った。

しかしちゃんと面白くなるのだ、これが。

 

時代劇という失われつつある文化と、失われたしまった侍の心が生むドラマが心を打つ。

何か昔に大切なものを無くしてしまったんじゃないかという寂寥だ。

ラストシーンがこれが素晴らしい形で結実するので一見の価値あり。

 

最初の地味さには、とっつきにくさがあるかも知れないが、そこは耐えて乗り越えよう。

最後のスタッフロールで吹いてしまった。けっこうスタッフが出演しているのね。

(地味とか思ってごめんなさい。面白かったです)

映画『ANORA アノーラ』感想 エロティック・キャピタルと尊厳にかかる理不尽さ

映画『ANORA アノーラ』を観てきましたので、その感想書いていこうと思います。

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

※また本作は性的な内容を含むR18作品です。感想でもその点に触れますので、併せてご注意ください。

 

 

 

 

何かの本で「女性はエロティック・キャピタルを有している」という説を読んでなるほどなと感じました。

 

本作の主人公も性的なダンスで収入を得ていて、このエロティック・キャピタルを利用して生計を立てている女性とも言えます。

 

この作品を鑑賞して、「エロティック・キャピタルを利用する女性の尊厳」って、どうなのだろう? と感じました。

 

主人公のアニーは劇中でロシア富豪の御曹司と結婚するのですが、富豪一派からは「娼婦」と基本見下されています。

 

女性の社会進出や平等などが進みつつあり、「進出」や「平等」について賛意しかないのですが、現行の「男性的な競争社会」に女性を含めるだけなのが本当に「平等」なのか? という疑問があります。

 

この映画ではその辺りの問題意識に近いものを感じました。女性の生来的に有するエロティック・キャピタルを換金する労働の尊厳があまりにも低いのは如何なものなのでしょう?

 

『星の王子様 ニューヨークに行く』という映画ではウェイトレスの女性と富豪がくっつくハッピーエンドで終わります。本作ではロシア富豪の御曹司とアニーは結局別れてしまいます。

ウェイトレスは良くて、娼婦はダメな理由はなんなんでしょうね?

 

本作のラストシーンでは、御曹司と別れた主人公の女の子と親身になってくれたロシア富豪のボディガードが、車の中で性的行為をします。

その行為は恋愛的なものではなく、アニーが店で行っていたサービスのような行為です。

ボディガードはその行為中にアニーへキスをしようとしますが、アニーはそれに怒って相手を殴りつけ、ハグするシーンで終わります。

 

一般的に映画ラストのキスシーンは典型的なハッピーエンドでしょう。

それを怒りと共に否定したアニーの心情はどのように受け止めればいいのでしょうか?

性愛を求められるのに、そこには尊厳がない。

そんな理不尽に対する怒りのようなものを私は感じました。

 

以上、そんなことを考えた映画でした。