観てきました。面白かったあああ。
ので、感想を書きたいと思います。
※以降、作品のネタバレを含みますのでご注意ください。
ラストでガンズアンドローゼスの「Sweet Child O'Mine」が流れる中、にやにやして感じていたのは、「うわぁ残酷だなぁ」でした。
一見するとハッピーエンドみたいに見える終わり方ですが、私には「残酷な恋愛物語」のように思えたのです。
なぜそんなふうに見えたのか? ざっくり三つのポイントで説明したいと思います。
(ちなみに原作未読です。おかしかったらごめんなさい)
残酷ポイント① やべえ!マブいナオンが現れた! ハサウェイくんの仮面舞踏会
前作「ギギ」関連でやらかしたハサウェイくんは反省しています。しかしどうにもギギに惹かれるハサウェイくんは本カノのケリアとか、ちょっとした生活音が気に障るくらい疎ましく思えてしまいます。(咀嚼音が大きいのはそういうのを表す演出で、クチャラーだから嫌いというわけではないでしょう)
ちょっかいを出されるのが、鬱陶しいのでしょうか? そういうわけでもないようです。
組織の他の女性たちも、水や飴などハサウェイくんに差し出したりしますが、「ありがとう」なんて平気の平佐で受け取ったりしています。
これは好意対象の違いに起因しているのだと思います。
組織の女性たちは、「マフティー」としてのハサウェイに好意を向けているわけです。「マナフィー」はいわばハサウェイの理想像みたいなものですから、その仮面を被っているかぎりカッコよく振る舞うことができるのでしょう。
ただケリアは、「ハサウェイ」自身に好意を向けています。ハサウェイにとって「ハサウェイ」自身というのはクェスを救えずレーンを殺してしまうクソ野郎なので、ここに好意を向けられると辛いものがあるのでしょう。
つまり出先でちょっかい出される限りでは仮面舞踏会でカッコよく決められるけど、家(劇中では部屋ですが)で待ち構える女は疎ましい、というところではないかと思います。
そしてギギは「マフティー」という仮面を見破って「ハサウェイ」を見つけた女性であります。
それぞれの違いとして、組織の女性たちは「マナフィーの仮面しか見ない」。ケリアは「ハサウェイを見て、マナフィーは偽りだと拒絶している」。ギギは「マナフィーの仮面ごしにハサウェイを見ている」という感じでしょうか。
より本質的、かつ包括的に自分を見てくれるギギという女性だからこそ、ハサウェイは惹かれてしまうのかもしれませんね。
……といえれば、少しは美談ちっくなのですが、そうではないところが残酷なところだと思います。このような美談が成立しないと考える理由は主に二つ。一つ目は「ニュータイプ能力」、二つ目は「ギギの容姿」です。
「ニュータイプ能力」に関していえば、ハサウェイもギギでさえ、強い能力は所有していません。それは劇中でも「ニュータイプ音」(フレクサトーンの音)が全く生じないことからも表現されているように思われます。つまりこの二人に関して、アムロとララァのような内面的感応は生じていないことを表現していると思われます。
次に「ギギの容姿」です。アムロとララァが感応し惹かれ合うことには「人種の壁を超えて」というメッセージが含まれ、それが「内面の共感」を際立たせているように感じられます。しかしギギの容姿は「白人、金髪、若い、美人」など、男なら多くが惹かれてしまう容姿をしているのです。これはアムロとララァの関係とは反語的に、内面的に惹かれあっているわけではない、ということを表現しているのではないでしょうか?
これをハサウェイくんは「肉欲」みたいに表現していたりします。
ややこしい言い回しを使ったりしますがハサウェイくんの気持ちを簡単に書くならば、「やべえ! 今までのことがどうでもよくなるくらいマブいナオンが現れた。どうしよう?」というところではないでしょうか?
主義主張、トラウマ、贖罪など、諸々全部が吹き飛びそうなほど惹かれてしまうというところが残酷なポイントだと思います。
残酷ポイント② 揺れる想いで災厄を振り回し系女子のギギ
そんなハサウェイくんに懸想されているギギ・アンダルシア。彼女といえば「セルフィッシュ(自己本位)で構ってちゃんだがバカは嫌い」みたいな人物として描かれています。本作でも「模様替え」のシーンは彼女のキャラクターがよく表現されているシーンでしょう。
そんなギギさんが厄介なのは彼女の「幼さ」にあるような気がします。
劇中でギギさんは三人の男に囲まれています。それは「お金をくれる人(パトロン)」「便利で楽しませてくれる人(ケネス大佐)」「気になる人(ハサウェイ)」です。
ギギはこの三人の間を、まるで分裂症のように移り気で行ったり来たりを繰り返します。
アデュー(アディオスではなく、アデュー)とパトロンに別れを告げたと思ったら、ケネス大佐のいまカノを追い出して、その地位を独占します。
かと思ったら、「私、ファザコンかも?」とか思って、自分の部屋にやってきたケネス大佐をフォーマルな服装で出迎えます。さも「私にその気はありませんから」とでも言いたげな雰囲気です。
かと思ったら、エアーズロックにいるだろうハサウェイの元に朝食を詰め込んだバスケットを携えて、彼の命を狙う軍隊と共に向かうのです。
このような行動に起因するのが、ギギの幼さにあるように思います。ケネス大佐に身を寄せつつ、「ファザコン」と自覚したところでフォーマルな服装を着るのは、「決めた男に操を捧げる」という無垢な倫理観の象徴とも取れるでしょう。また彼女の行動の全体を通して核となる行動指針が見受けられません。金のため、快適のため、恋のため、どれのために生きていくのか決めきれていないので、その場しのぎの対応を繰り返しているようにも見えます。
その圧倒的な魅力で周囲の男を虜にするだけ虜にして、特にしたいことがまだ決まっていないという生殺しに付き合わなくてはいけないというのがギギという女性の残酷なところだと思います。
残酷ポイント③ そんな二人が出会ってキスすると?
ラスト、ペーネロペーとクスィーとのバトルでハサウェイくんはアムロの幻想を目にします。ジークアクスでいうところの”キラキラ”みたいな場所ですが、ハサウェイくんしかいないことを考えると、あれは彼の心象風景でしかないのでしょう。(それもまた残酷ですね)
そしてハサウェイくんはマフティーとしての仮面を被り、トラウマに打ち勝ちます。自分とは向き合わず飽くまで仮面でやり過ごす選択をしたというのもやり切れないところが残ります。
トドメを刺そうとしたハサウェイくんの前にギギが姿を現します。ギギをクスィーの手で持ち上げて、コックピットから乗り出して、「こっちに飛び込んでこい」的なセリフを吐くハサウェイくん。(三島の『潮騒』かな?)
ギギの姿を見ただけでハサウェイくんの仮面(マフティー)は剥がれてしまいます。
そしてハサウェイくんの胸元にギギは飛び込みます。(浜村淳の映画紹介ならここまで紹介するでしょう)そして二人はキスするのです。
キスしたらどうなるか? 物語がそこで終わってしまうのです。
惹かれあっていた二人がようやく結ばれたハッピーエンドと見ることもできますが、私にはそうは感じられませんでした。
残酷ポイント①②を踏まえると、「決めていたことを肉欲で捨ててしまいそうなハサウェイくん」と「まだなにも決めていないが肉欲を掻き立てるギギさん」が肉欲に身を委ねてしまった、みたいに見えて残酷だなと感じてしまったのです。
だからハッピーエンドではなく、まるで悲劇へのプレリュードといった印象を受けたのです。
エンディングテーマの「Sweet Child O'Mine」のフレーズが胸に突き刺さる想いでした。
Where do we go?
Where do we go now?
Where do we go?
これからどうする?
これから俺たちどうしようか?
これからどうすれば?
こういううがった(誤用の意で)見方をしなくても、映像表現としてかなり新鮮で面白いと思いました。内容はガンダム作品の履修が必要ですが、観ていて面白い作品になっていると思います。
以上、「キルケーの魔女」の感想でした。それではまた次回。
※補足※
エアーズロックにギギはハサウェイくんの時計を持ち込んでいる件について。
「この時計が、ギギがハサウェイに惹かれていてた証拠ではないか」という意見もあると思います。
ただ私は「いや身につけるアクセサリー以外を持ち込むなんて、”捨てる”ためじゃない?」と思ってしまう人間なんです……。