Idiot's Delight

煩悩まみれで気軽に日々を過ごしております

雑記「僕らがロボットを愛せるワケ」(2)

今日もお仕事です。

今回は前回の記事に引き続き、「僕らがロボットを愛せるワケ」の2回目の記事を書いていこうと思います。

f:id:akutade_29:20240210154158j:image

前回の記事はこちらをご参照ください。

akutade-29.hatenablog.com

 

前回の記事では西洋と日本における宗教観の違いから、神として受け入れる余地の多寡について書きました。今回はなぜ日本では神として受け入れる余地が広いのか? について、私なりに考察した結果を書いていきます。

 

その理由として、私は日本の地域的な特質が影響していると考えています。

 

セロトニンという脳内物質があります。これは幸せホルモンとも呼ばれ、精神の安定を司る役割を持つホルモンです。このセロトニンの量が日本人は少ないと言われています。その理由の一つとして日本は災害が多いことを挙げる説もあるようです。

 

皆さまもご存知の通り、日本は災害が多いという地域的な特質があります。日本の国土面積は世界的に見れば0.25%を占める程度ですが、この極小地においてマグニチュード6.0以上の地震回数が世界全体の20.8%、被害額は世界全体の18.2%を占めます。(詳しくは以下リンクをご参照ください)

1 災害を受けやすい日本の国土 : 防災情報のページ - 内閣府www.bousai.go.jp

このように日本は災害が多い国であり、それは我々、日本人の脳内物質の量にも影響を与えるほどの、大きな特質です。この特質は我々の行動様式にも影響を与えているのではないかと考えます。

 

チャタム諸島においてマオリ族とモリオリ族という部族がありました。1835年、この二つの部族は衝突し、マオリ族はモリオリ族のほとんどを殺してしまいました。このエピソードにおいて意外な点はマオリ族は農耕牧畜民であり、モリオリ族は狩猟採取民であったことでしょう。

私たちの感覚でいえば、より原始的な狩猟採取の生活を営むモリオリ族の方が野蛮で暴力的ではないかと思ってしまいます。しかし狩猟採取の生活を行わなくてはいけなかったモリオリ族では、生死がよりシビアな環境であるため、他者に対して敵対する余裕はなく、協力していこうとする方に行動様式が偏ったようです。(このエピソードの詳しくは「銃・病原菌・鉄」上巻に記載されております)

 

このエピソードから敷衍するに(一概に言えないかも知れませんが)生命に対するシビアな環境は、集団互助の行動様式へバイアスが発生するのではないでしょうか。

日本は前述の通り、災害が多い地域です。これは(モリオリ族とはまた別の意味で)生命のリスクが高い環境と言えるでしょう。その結果、モリオリ族と同じように敵対するより協力することを選択する集団互助へのバイアスが発生したのではないでしょうか。

このバイアスが神道などに見られる「神として受け入れる余地の広さ」に繋がっているように思われます。つまり他者の神を否定するより、また相対主義のように違うと認めるより、全てを「神」として認めて協力することを選択するような行動形式が生まれるに至ったのではないかということです。

 

前回の記事を含めて私の仮説を纏めると以下の通りです。

「日本は災害が頻発するという地域の特質があり、それが集団互助への行動様式になるようなバイアスが発生した。そしてそのバイアスは神として受け入れる余地が非常に広い宗教観の構築に影響を与えた。結果ロボットという概念を好意的に受け入れることが出来た」

これが私が考える「僕らがロボットを愛せるワケ」です。

 

ではなぜロボットはその余地に潜り込むことが出来たのでしょうか。そのあたりは追々、気が向いた時にでも書こうかなと思います。

 

文章で自分の考えを語るって大人になるとあんまりしなくなりますが、やってみると楽しいもんですね。長い文章になってしまいましたが、考えが纏められて満足です。

 

今回はここまで。

それではまた次回。