Idiot's Delight

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雑記「合理的」について

「合理的」ってよく言われます。

「〇〇するには合理的だ。そうしないのは馬鹿だ」みたいな文脈で使われることが多いような気がします。

この言葉について(おそらくには無自覚に)「経済」という言葉が省略されている気がします。そして省略された「経済」という言葉に意識を向けると「(経済)合理的」が正しいのかどうかは疑問が残ります。

 

経済合理性の良さとは「わかりやすさ」にあると思います。資本主義体制において「数値に置き換える」経済合理性はイデオロギー上の良し悪しを「わかりやすく」してくれるという価値があるように思います。ただ「わかりやすさ」を至上の価値として良いのでしょうか?「わかりやすさ」を至上の価値としてしまうと対義となる「わかりにくさ」に価値を認めないことになります。しかし私たちはすでに「わかる人だけわかる」や「わかりにくい」コンテンツに囲まれて生活しています。これらのコンテンツは無価値でしょうか?

 

「わかりにくさ」の価値としてはドワンゴの川上さんが出された本の記述が関連しそうです。

簡単にまとめると「新しいものは脳のショートカットみたいなものでショートカットが多いと生存に有利に働くから人は新しいものに惹かれる」みたいなお話が書かれている部分があります。

脳の生理的に正しいかどうかはわかりませんが納得できるロジックだと思います。そして「新しいもの」を「わかりにくいもの」に変更しても通用しそうだなと感じました。ここあたりに人が「わかりにくいもの」に惹かれる理由が潜んでいそうです。

 

ともあれ「わかりにくい」コンテンツが一定の評価を受けているということは、そこにも一定の価値が存在しているように思われます。であるなら「わかりやすい」合理性だけを求めるのも疑問が湧きますし、その疑問は「経済合理性」を正しいとすることにもリーチするように感じられます。

だからといって「経済合理性は意味がない」ということを書きたいわけではなく、それを「絶対に正しい」とする姿勢、つまり「(経済)合理的だ」が最終的絶対的な結論にはなり得ないと思うということを書きたかったわけです。それはあくまで「経済」という限定的なスコープに限った「合理性」にしか過ぎないのでしょう。

 

ということをお昼休みに考えていました。

 

以上、ではまた次回。