Idiot's Delight

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雑記「僕らがロボットを愛せるワケ」(1)

今日はお仕事です。

今回は「僕らがロボットを愛せるワケ」と称し、なぜ日本人がロボットを愛することが出来たのか、その理由について、私なりの考察結果を書いていこうと思います。

 

日本人はロボット好きだと、よく言われます。私も好きです。私と同世代の男性で、幼少期にロボットが活躍するアニメや漫画に全く触れていない人は珍しいと思います。しかし世界的に見ると、こんなにロボットが好きな民族は、珍しいようです。

何回か前の記事でも触れましたが、ロボットの語源はチェコ語のrobota(労働)からです。そしてこれは恐らくは産業革命により人の仕事を機械が代替した事実から敷衍されたイメージだと思います。結果として日本以外、特に西洋の人たちにとってロボットは「自分たちの労働を奪っていく」ものと捉えられ、恐怖の対象となっているようです。

しかし日本人がイメージするロボットには、労働を代替する存在としての側面は希薄だと思います。ロボットに対するイメージが、なぜ日本とそれ以外の国で、このような違いが生じているのでしょうか?

 

この違いについて、理由の一つは土着的な宗教観の違いが影響しているのではないかと、私は考えています。

 

何回か前の記事でも書いたのですが、紀元前ギリシアにおいて、当時の人々に解釈できない事象に対して、「神」という存在を経由して、理解に繋げていく「ミュトス」という考え方を紹介しました。

このミュトスでの解釈は、人の集団ごとによる異なるものでした。例えば「雨」という事象に対して、「神の涙」と解釈する集団もあれば、「神の怒り」と解釈する集団もあるという具合です。

歴史が進むにつれて、人の集団は徐々に巨大化していき、やがて異なるミュトスを信仰する集団同士が接触する規模になると、当然ながらどちらが正しいのかという衝突が発生します。この衝突に際し、生まれた考え方が「相対主義」です。

相対主義」と共通の真理(価値)は存在せず、人それぞれで価値が異なることを認める考え方です。この考え方で異なる信仰を持つ集団同士での衝突を回避しようとしました。一見すると寛容的な考え方のように見えますが、「人の価値を認める」ではなく、「人それぞれの価値が異なる」ことを認めるという点において、自身の真理や価値に対する拡張性を促す考え方ではなかったと言えるかもしれません。事実として相対主義が広まった結果、「善悪は人それぞれなのだから、人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という考え方も同時に広まってしまったようです。

このような流れの元に(色々と大胆にすっ飛ばしますが)、西洋における一神教的世界観が構築されていきました。この流れを言い換えると、神として受け入れる余地が狭い世界観と言えるかもしれません。

 

一方、日本の場合ですが、土着の宗教としては「神道」というものがあります。「神道」では、「八百万の神(やおよろずのかみ)」という言葉にも表されている通り、多神教的世界観です。そしてこの多神教のレンジが、とても広いのが特徴でしょう。ざっくりと言ってしまえば、「すべてに神が宿っている」という世界でも類例がないほどに広いレンジです。

これは現在の私たちの言語感覚にも表れているように思います。たとえばすごいものを賞賛する時に、私たちは「神」という言葉を容易に使用します。アイドルの選抜メンバーに対しても「神セブン」などという名称が使用されていることは記憶に新しいでしょう。(もしかしたら、既に古いのかもしれませんが、、、)

このようなことを踏まえると、日本人にとって神とは「すごいもの」くらいの意味合いで使用できる概念であり、それは西洋などに比べると、神として受け入れる余地が非常に広い世界観と言えるのではないでしょうか。

 

この余地の多寡において、日本人はロボットという新しい概念を好意的に受け入れる素地があったのではないかと考えるわけです。(日本人は、家電などの改良がうまかったという過去も踏まえると、ロボット以外でも当てはまるかもしれません)

 

ではなぜ日本ではそのような素地が構築されるに至ったのかの考察は次回に譲りたいと思います。

 

今回はここまで。

それではまた次回。