Idiot's Delight

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雑記「オカルト」で生き辛い現代を乗り切れる(かも?)

本日は仕事です。

今回は雑記として「オカルト」って、現代を生きる上でも便利じゃないかしらんと思うところがあり、それについて書いていこうと思います。

 

古来より人間は未知のものに対して、オカルトの想像力をもって乗り越えてきました。

紀元前のギリシャでは、未知のものを「神の仕業」と解釈する動きがありました。例えば当時の人々には未知であった天候の問題、落雷などに関して「神様が怒っている」とそういう風に解釈するような考え方です。これを「ミュトス」と呼びます。

これに対して論理で合理的に解明しようとした考え方を「ロゴス」と呼びます。それが現代までに続く科学主義へと繋がって行くのだと思いますが、そのような合理的な思考が生まれる前は「ミュトス」的に物事を捉えてきた歴史が人類にはあったのです。

なので人類は生来的には「ミュトス」的な思考があり、科学主義につながる「ロゴス」的な思考はある種の新参ものと言えるかもしれません。

 

ただ現代で「神」などを考えると体系化された宗教上に定義されたものであり、なにか堅苦しいイメージもありますね。しかしもともとオカルトの想像力はけっこう柔軟なものでした。

日本の「河童」などはオカルトの柔軟性を示す良い例だと思います。

「河童」は日本人であればほとんどの方が知っている川の妖怪なのですが、この起源を探っていくと面白い。もともと「川」のオカルト的イメージは「龍」や「神」などの強大な存在でした。しかしこれがある時期から「河童」のような矮小な存在に零落してしまった、という流れがあります。

これはなぜかと言えば、どうやら川の治水技術に関連しているとの説があるみたいです。

川の治水技術がまだ発達する前は、川の氾濫などはアンコトローラブル(操作不能)で、甚大な被害を人類に与えてきました。その未知が与える影響が、「龍」などの強大な存在へと紐づいたものと思われます。

しかし治水技術が発達し、川の氾濫がある程度コントローラブル(操作可能)、もしくは操作できなくても原因が判明し始めると、川の脅威の未知性が零落していったのでしょう。そのような川のオカルト的なイメージに「龍」などの強大な存在が紐づかなくなり、結果として「河童」などの矮小なイメージが生まれる一因となった、そういう説です。

このように聞くと、「そういうものか」と思いますが、それまでは「龍」などと強大な存在をイメージしていたのに、「河童」などの矮小な存在に変化して理解するあたり、オカルトの想像力は柔軟なのだなと感心します。

 

産業革命、情報革命を経て、すっかり科学主義に染まった現代では、このような柔軟なオカルトの想像力を手放しつつあるように感じられます。

何かにつけて「原因追及」が求められる社会は、もちろん良い部分もありますが、それが個人レベルで絶対視されるのは、本当に正しいのか? と疑いたくなる気持ちもあります。なんでもかんでも原因を求めなくてはならないのは案外、現代の息苦しさの原因の一つではないでしょうか。

古代では「ミュトス」的な思考が人類の生来的な思考方法でした。これを原始的とみるか根源的とみるかの判断は難しいところですが、現代では全く活用できないものと切り捨てるのも惜しい気がします。

例えば機嫌が悪くてピリピリしている人がいたとします。このような人に「なぜ」「どうして」と考えて、いわば密接して付き合うのはなかなか辛いですよね。こっちがピリピリしてしまうかもしれません。そういうときに「妖怪ピリピリだ」とオカルトのイマジネーションで解釈することができれば、そのピリピリに付き合わなくてよくなりそうです。ワンクッションおけるみたいなイメージですかね。

もちろん何でもかんでも「妖怪の仕業」とするのは幼稚で稚拙でしょう。しかし全てにおいて「なぜだ!?」を突きつけて疲弊してしまう。「こうあるべき」と思い込んで意固地になってしまう。そのようになってしまうくらいなら「わからなくてもいい領域」を認め、それをイマジネーションで克服しようとする考え方は、結構豊かな生き方につながっているように思います。

 

今回はここまでです。

次回は今回のお話の続きです。では「オカルトで克服したらどうすればよいのか?」(上の例で言うと「妖怪ぴりぴりと思った後はどうすればよいのか?」)について書いていきたいと思います。

それではまた次回。