Idiot's Delight

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雑記「祈り」の実際的な効能について

本日も仕事です。

今回は前回のお話の続き、オカルトのイマジネーションで克服した後、どうすれば良いのか? について書いていきたいと思います。

 

前回のお話は以下の記事をご参照ください。

 

akutade-29.hatenablog.com

 

結論から言えば「祈ればよい」じゃないかなと思います。実は「祈り」には実効性があるのではないか、とそういう風に考えていたりします。

もちろん、何かに祈れば成就することに因果が発生しているとは思いません。

ではそれ以外の意味で「祈り」にはどのような実効性があるのでしょうか?

 

まずは「祈り」とは何か?というところから、思索を始めてみたいと思います。「祈り」の言葉の意味から見てみましょう。辞書には以下のような意味として載っています。

1 神仏に請い願うこと。祈祷(きとう)。祈願。「—を捧げる」

2 能の働事(はたらきごと)の一。山伏や僧(ワキ)が鬼女(シテ)を降伏するさまを演じるもの。小鼓(こつづみ)・大鼓(おおつづみ)・太鼓・笛で奏する。「道成寺」「葵上」などにみられる。祈働(いのりはたらき)。

狂言の型の一。山伏が印を結び、数珠(じゅず)をもんで祈るもの。

(デジタル大辞泉より引用)

この言葉の意味から考えると「オカルトのイマジネーションにより発生した非現実的な存在に請い願うこと」と言い換えることができるかもしれません。

しかし合理的に考えれば、そのような効能(願えば叶う)が実際にあるとは思えません。ではなぜ人々は祈るのでしょうか。

上記引用部でも記載がありますが、人々はさまざまな形式をもって「祈り」を捧げてきました。全く意味がないとするとこの文化や歴史は一体なんなのでしょうか。

 

これついて私は「問題の多くは時間経過で解決する」ということを示しているのではないかと考えています。

例えば雨乞いの祈り。「天に祈りを捧げることによって雨が降った」という因果を正と考えるより、「(祈っている間に)時間が経過し、天候が変化したため雨が降った」と考える方が合理的です。

このように祈りを捧げてきた問題の多くは、時間経過により解決したのではないかと考えます。

 

ではなぜ人々は「祈る」のでしょうか。時間経過により解決するなら何もしない方がよい、そんな風に思われるかもしれません。

しかし人間(の脳)は「何もしないで待つ」ということが苦手な存在なのです。例えば映画やゲームなどを楽しんでいる3分はかなり短く感じられますが、インスタントラーメンが出来上がるのを待つ3分は、同じ3分とは思えないほどに長く感じるものです。

「暇と退屈の倫理学」(著:國分功一郎さん 新潮文庫)という本でも何もしていない時に、脳がどのような状態にあるかを含めて「暇」とはなにかについて説明されている部分があります。

デフォルト・モードネットワーク(DMN)は、安静時や何もしていない時に作動する部位群である。自己参照的な過程や、未来の行為に備えた過去の知識の参照を司っていると考えられている。つまり、暇で静かにしている時に作動しているのがDMNである。

(中略)

我々は何もすることがない状態に耐えられない。つまり、暇になると苦しくなる。その苦しみは実に強力でなものであって、身体的な苦しさよりも苦しい。人は何もすることがない状態、何をしてよいのか分からない状態の苦しさに陥るのを避けるためであれば、よろこんで苦境に身を置く。

なぜか? それはこの苦境が、記憶という傷跡の参照に歯止めをかけるからではないからではないだろうか。

「暇と退屈の倫理学」付録 傷と運命より引用

どうやら人の脳とは何もしていない時、つまりは暇なときに過去の記憶を参照していくみたいですね。ぼーっとしていると過去の黒歴史が思い浮かんだ「アッー!」と顔を埋めて経験がある人もいるのではないでしょうか。それが嫌なので、人は暇を嫌うみたいです。

 

これらより「祈り」とは「問題が解決する時間経過を待つ間の暇つぶし」と考えることが出来るのではないでしょうか。この点が私が考える「祈り」の効能であり、「オカルト」との対峙方法です。

前回の記事も含めてまとめると、どうしようもない問題に煩うくらいなら、オカルトにして祈って時間経過による問題解決を待ったほうがマシじゃないか、そんな風に考えている、ということです。(いろいろ一概には言えないこともあるので、ご利用は自己責任で、計画的にお願いします)

 

ただ前の記事でも書いた通り、何でもかんでもオカルト解釈に頼るのも考えものです。どうしようもならなくても、実際的に対峙しなくてはならない問題は数多く存在します。

なにをオカルト的な解釈をして、なにも実際的に対応していくのか。その判断に必要な指針が「美学」だと思います。

 

今回はここまで。美学についてはまたいつか書いていこうかなと思います。

 

それではまた次回。