本日は仕事です。
今回は雑記、テーマは「ゲーム好きという言葉の意味が変化しているような気がする」ことに関する思索でございます。
昔(私の世代)で「ゲーム好き」といえば、いろんなゲームをプレイしていて詳しい人を指していました。モンハンなどの特定のゲームのみプレイする人にゲーム好きかと尋ねると、「好きとまで言えないけどモンハンはやっている」みたいな感じでエクスキューズが入る。そういう時代だったのです。
しかし現代において、「ゲーム好きだ」という若い人に「どういうゲームをしているか」って尋ねると、Apexやフォートナイトなど、何かひとつのゲームだけプレイしている人が思いの外多いように気がします。そしてそれ以外のメジャーなタイトル(ドラクエやFFなど)は知らない、そういう人たちが躊躇いなく「ゲーム好き」と言える時代になった。そういう風に言葉の意味が変わっているなと感じる次第です。
この変化について、「だから若者はけしからん!」という時代錯誤的な意見の表明をしたいのではありません。
(そもそも多分Apexなど単一ゲームを集中的に楽しんでいるゲーム好きの方が、私よりゲームに対して時間も熱意もかけていると思いますしね)
ここで考えたいのは、「この変化はなぜ怒っているのか?」そして「この先どうなって行くのだろうか?」そういうことを考えて楽しみたい、そういう思索のお遊びが今回やりたいことです。
では早速ですが、このような変化がなぜ起きているのかについて、いくつか理由を考えてみました。
(1)時間の不足
ゲームのプレイ時間もながくなったなあと感じます。昔は100時間を超えてプレイできるようなタイトルなんて、ほとんどありませんでした。
そしてゲーム以外でも家で気軽に楽しめるエンターテイメントも増えました。動画配信サービスなんて、昔にレンタルビデオを利用していた身からすれば奇跡のようなサービスです。このような現代において、「時間が足りない!」と感じる方は多いのではないでしょうか。
つまり「幅広く多数のゲームをプレイする時間がない」というところが、まず考えられる「ゲーム好き」という言葉の意味の変化の理由だと思います。
(2)雑誌文化の衰退
昔はゲームが好きといえば、「ファミ通」や「電撃」などの雑誌を購読するのは当たり前でした。普通に近所のコンビニで売っていて、よく立ち読みなどしたものです。
思い返してみれば、ゲーム雑誌はいつからコンビニに置かなくなったのでしょうかね。
昔のゲーム好きはこのような雑誌から知識を蓄積していきました。プレイしていなくても、有名な作品について、いつ発売されるかなどの情報はおさえていたものです。
今はこのような雑誌文化が衰退してしまったように思います。その代わりとしてネットがあると思いますが、ネットなどですと自分の興味がある情報に偏りがちになってしまうのではないでしょうか。雑誌のように周辺知識も含めて取得することは難しくなったと思います。
つまり「幅広いゲームの知識を取得することが困難になった(興味があるものに偏るようになった)」というのが、次に考えた理由です。
(3)情報革命
情報革命、つまりインターネットの普及です。インターネットのおかげで、ゲームの攻略情報なんかすぐに取得できるようになりました。私も常々お世話になっています。
こんなに便利なインターネットですが、しかし「知識が容易に外部補完可能になった」という意味合いで、実は知識の価値(正確に言えば知識を持っているという価値)は相対的に低下させているのではないでしょうか。
何かに詳しい人がいても、尋ねるよりは「ググった方が楽」というのは現代人であれば、誰もが感じるところだと思います。
そのような環境では、「誰かより詳しくなりたい」というモチベーション自体が発生しにくいのでははないか、そんなふうに考えます。
そしてそのようなネット社会は知識の外部補完を容易にしたほか、SNSなどによりコミュニティを広範なものに変化したようにも思います。コミュニティに属した以上、独自性を確保したいと思うのが人情。しかし知識は外部補完されてしまうので、そこで独自性(私は知っている)を出すのは効率が悪い。その結果として主観的な感情(私はこう思う)で独自性を出していこうという偏りが発生したのではないでしょうか?
つまり「知識の価値が相対的に衰退し、代わりに感情の価値が相対的に向上した」それが私が最後に考える「ゲーム好き」という言葉の意味が変化した理由です。
以上のような理由により「ゲーム好き」という言葉の意味が変化したのではないかと推測します。
まとめると「環境的に知識を蓄積して行くことが困難になり相対的な価値が衰退してしまった。代わりに主観的な感情の価値が向上した。結果ゲーム好きという言葉は客観的な知識量を問うものではなく、(字義の通り)字義の通り「好き」という感情のみで運用可能になった」これが私が考えるゲーム好きという言葉が変化した理由です。
自分の世代での言葉が変わってしまったということには、幾許のセンチメンタリズムを禁じ得ませんが、めんどくさいしがらみなく「好き」を「好き」と言えるようになったことは好意的に感じます。
では「この先どうなるか?」、続けてそれについても考えていきたいと思います。結論から言えば、私は犬・猫が好きというレベルでの好きになっていくのではないかしらん、とそんな風に考えています。
犬や猫が好きかと問えば、好きと答える人は多いと思います。犬・猫は見ているだけで可愛いですもの。しかし実際に飼っている人となると意外に少ない。
現時点においてもゲーム配信などで実際にプレイはしていないけど、観て楽しむという文化は広まりつつあります。こういう人たちにゲームは好きかと尋ねると、現時点では「配信で見てるだけだけど」とエクスキューズがつきます。昔のモンハンだけ楽しむ人たちのように。
今後AIが普及すると、もしかしたら代わりにゲームをプレイしてくれるAIというのも誕生するかもしれません。そんな風に時代の流れを観察していると、そこに犬・猫を好きというレベルでゲームを好きという人たちの姿が想像できるのです。
そうなった場合、今までの「ゲーム好き」たちに対して何を求められるのか。そんなことを考えると、「初心者に親切であること」や「規律示してくれる」くらいしか用がないのではないかなぁと思います。今の犬・猫に詳しい人が、こんな人がいいなぁと思うのがそんな姿ですからね。わからないことを尋ねたら丁寧に教えてくれたり、犬・猫が好きという人はかくあるべしという規律を実践してくれたり、などなど。
「親切は人のためならず」、そんな言葉がありますが、そういう間接的な意味合いではなく、まさに直接的な意味合いにおいて、親切でなくちゃ生き残れないのかもしれないなぁと、ぼんやり考える今日この頃でした。
本日は以上です。エビデンス皆無ですが、それも思索のお遊びゆえのご愛嬌。
それでは、また次回。