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読書『ジュリーの世界』感想 郷愁の重層

今日もお仕事です。

今回は『ジュリーの世界』(著:増山実さん ポプラ文庫)を読み終わったので、感想を書いていこうと思います。

 

※以降、ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

『ジュリーの世界』は1979年に実在した「河原町のジュリー」という浮浪者を中心とした物語です。実在の人物である「河原町のジュリー」をモチーフにしているものの、ドキュメンタリータッチの叙事詩的構成ではなく、登場人物の主観やエピソードを交えて叙情的に構成されております。このことより(境界は不明ですが)この作品は著者の想像力によって創出されたフィクションだと思います。

 

このフィクションに私は「郷愁の重層」が込められているように感じました。

 

この作品で主観を与えられている登場人物は、新米警察官の木戸、バーテンの柚木(彼女の主張を尊重してバーテンと記載)、そしてサザン好きの少年です。

 

彼らは京都の街で「河原町のジュリー」に出会い、「河原町のジュリー」に対してそれぞれの心情を抱くようになります。この心情に共通するのが「郷愁」ではないかと考えます。

木戸は「河原町のジュリー」の姿に父親を見ます。また柚木は「河原町のジュリー」から故郷の方言を聞きます。この二人は年齢も近く、「河原町のジュリー」に対して故郷や父母に対する郷愁を抱いているように見えました。

そして少年に関しては1979年時点では郷愁を抱かないものの、2020年時点において少年は作家になっており、当時の「河原町のジュリー」の小説を書くことで、郷愁を表しているように見えます。

また「河原町のジュリー」自身も彼なりの郷愁を抱えていることが物語の終盤で明かされます。

このようにこの作品では人の心情として時系列に沿った郷愁の重層構造が生まれています。時系列に沿っているので、ここでは「郷愁の縦重層」と呼んでみます。

そしてこの郷愁の縦構造が京都の街中で繰り広げられているところが、本作の面白いところだなと感じました。

 

京都の通りの名前を書けば、京都の小説になるのではないか? そういう短絡な思想に捉われていた時期が私にありました。その結果、手慰みで起こした小説は雲散霧消の彼方へと埋没することになったのですが、閑話休題。その短絡思想は当たらずとも遠からずではなかったか、と思ったりしています。

事実、「ジュリーの世界」でも京都の通りの名前は、街の描写として、たくさん登場するのです。

1979年の京都の街並みを私は知りません。しかしこの作品の描写で、当時の街並みが目に映るように感じられました。それは京都の通りの名前が変わっていないからでしょう。

街並みは変わっておりますが、通りの名前は変わっていないので、場所はすぐさま思い浮かべることができる。これは京都の街の特質かもしれませんね。

この物語には登場しませんが「かねよ」の前には、ラーメン屋があり、その昔猫たちは「かねよ」から鰻を、ラーメン屋からはチャーシューを貰うという、なにやら豪勢な食事を摂っていたことを思い出しました。

このように街並みは変わっていっても通りの名前は変わっていない、京都の街並みには、特殊な郷愁を思い浮かべる部分があると思います。これを先ほどの「郷愁の縦重層」に連ねると、「郷愁の横重層」と呼んでもいいかもしれません。

 

変わっていく人々、変わっていく街並み。その中で変わらない郷愁という想いを縦と横の重層で紡いでいく物語に、感動が生まれているように感じました。

この郷愁の焦点となっているのが「河原町のジュリー」ではないかと思います。物語の終盤で登場するバーのマスターが以下のようなセリフを発します。

彼を見た者は、彼が本当はどんな人物なのか、いろんな物語を作っていました。みんな、何かを彼に仮託していたんです。それによって、自分が今、背負っている荷物を軽くした。

河原町のジュリー」はオカルト的に解釈すると、郷愁の妖怪と言えるかもしれませんね。

 

私は「河原町のジュリー」を見たことも聞いたこともありませんでした。しかしこの作品を読んでみると、なにやら「河原町のジュリー」が胸中に宿ったような、そんな心持ちとなりました。

 

以上、『ジュリーの世界』の感想でした。次に『タイタンの妖女』という作品を読んでいるのですが、タイトル前のエピグラフから心を持っていかれてしまいました。読み終わるのは、だいぶと時間がかかりそうです。

 

今回はここまで。

それではまた次回。