Idiot's Delight

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映画「ローラーボール」感想 突っ込みどころ満載のスポーツとカッコいいドラマ

今日はお仕事です。

朝、寒かったです。何やら雹みたいなものも散っていました。2月も残すところあと僅か。早くぬくぬくしい春が来てくれるといいなとは思いますが、長い夏が来る前の寒さの名残と考えると惜しいような気もしてくる今日この頃です。

さて今回は映画『ローラーボール』が面白かったので、その感想を書いていこうと思います。

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

私は『ローラーボール』はとんでもなく頭の悪いスポーツを主軸にしつつ、ドラマが最高にカッコいい映画だなと思いました。

 

ローラーボール』は1975年製作のSFアクション映画です。主演は『ゴッドファーザー』などにも出演されていたジェームズ・カーンさん。監督はノーマン・ジュイソンさん。

 

あらすじは以下の通り。

映画の舞台は西暦2018年の(製作当時からすれば)近未来です。

映画では明確に描かれないものの「企業が頑張ってあらゆる社会問題を解決した世界」という設定はあるみたいです。

その世界で生み出されたスポーツが「ローラーボール」でした。

主人公はこのスポーツの世界チャンピオンであるジョナサン・E。「ローラーボール」で得点をもぎ取る活躍を見せる有名選手です。

しかし会社はジョナサンに引退を求めます。Wikipediaのあらすじによれば有名になったジョナサンの影響力を危惧したためとのこと。

しかしジョナサンはその要求に応じません。会社はジョナサンを引退に追い詰めようと、元々そこそこ危険な「ローラーボール」のルールをより危険なものに変更します。

ルール無用のスポーツと化す「ローラーボール」を舞台にジョナサンは過酷な戦いを繰り広げていきます。

 

この「ローラーボール」というスポーツが、最高に頭悪くてイカすんですよね。

ローラーボール」は円形のトラックに放たれた鋼鉄製の鉄球を10人のプレイヤーで構成される二つのチーム(計20人)で奪い合い、鉄球を相手ゴールに打ち込めば得点になるというスポーツです。そしてトラック内はローラースケートを履いた選手とバイクが走ります。

 

といういろいろ突っ込みどころがあるスポーツです。

なぜに鉄球? なぜにバイクとローラースケート??

 

おそらくはアメリカンフットボール(画を見ればわかるのですが装備品はほぼアメフトのものを流用)と、当時普及していたであろう「ローラースケート」や「バイク」を重ねて近未来(っぽい)スポーツとして想像したのでしょう。

このあたり横井軍平さんの「枯れた技術の水平思考」に通ずる思想が見て取れるので興味深いです。

しかしそれにしてもやり過ぎ感は否めません。実際映画中も選手はしょっちゅう怪我を負って血まみれになります。それほど怪我が前提になると運営なんてできないじゃないかと思わず感じてしまいます。

おそらく現代のCGで演出されると本当に安っぽい馬鹿みたいなスポーツに見えると思うのですが、さすが1975年製作。映画では実際にやってるんですよね、これ。

もちろん怪我しないように所々嘘はあります(鉄球はただの銀色のボールにしか見えません)しかしトラックの中にバイクを入れてローラースケートと併走させるのはやったり、ラフプレイも実際のスタントでやったり、終盤燃えるバイクも実際燃やしたりしています。

こういうやりすぎなものも、実際やられるとぐうの音も出ません。

「実際やってみた」は意外に強くて画に妙なリアリティが生まれています。なので最高に頭の悪いスポーツなんですが、なんともイカす感じの画に仕上がっています。

 

しかしこの映画で痺れるのはやっぱりドラマでしょう。このドラマの演出はめちゃくちゃカッコいいのです。

 

例えばジョナサンの親友ムーンパイがやられるシーン。

ジョナサンとチームメイトのムーンパイはプライベートでもつるむ仲です。

彼は東京チームとの試合で重傷を負ってしまいます。

あらすじで先述した通り会社がジョナサンを引退させようとルール変更した結果、東京戦では「ファールのペナルティなし」になりました。ファールし放題のデスゲームとなったのです。(突っ込みどころです)

そしてムーンパイは東京チームに手足を抑えられて、着用していたヘルメットをもぎ取られた後、頭を強打され脳を損傷してしまいます。

引きずられて(引きずられるように、ではなく実際引きずられて)ベンチに戻ったムーンパイ。

普通のスポーツ映画なら、ジョナサンはムーンパイにすがり寄って涙を流すでしょう。そして怒りに満ちた目でも東京選手に向ければ、わかりやすく悲しみと怒りを表現できます。

 

しかしこの映画はそんなベタなドラマを描きません。

 

ベンチに戻ったムーンパイに対してジョナサンはリアクションを取らないんです。

無表情で眺めながら、再出場するために自分の装備を整えます。

涙目になったり、怒りで荒々しく装備をつけることもなく、本当にただ淡々と。

そしてトラックに戻ったジョナサンはムーンパイの頭を割った選手を見つけると、猛然と立ち向かいムーンパイと同じ目に合わせます。

 

無表情、淡々からの激情。どうです、カッコいいと思いませんか?

 

私が思うに、「無表情、淡々」はジョナサンのプロフェッショナルとしての自念がそうさせたのでしょう。泣きついてゲームへの再参加を遅らせるより、冷静に装備を整えて少しでも早くゲームに戻った方が良いという冷酷なまでのプロ意識です。

そしてゲームに戻った時に見せた激情について、ジョナサンにとって自分の自由意志をみせることができる場所が「ローラーボール」のトラックの中だけということを表しているように思います。

このようにこの作品ではベタな演出では見せられない深度をもってドラマが描かれているのです。

なぜにスポーツはあんなに頭悪いのに、ドラマはこんなに深いのか。

 

そして見所はやっぱりラストシーンでしょう。ドラマにベタな演出では描かれない深度があるとするならラストシーンはどのように解釈できるでしょうか。

 

本作のラストは決勝であるニューヨーク戦です。この試合では東京戦での「ペナルティなし」に加えて「時間無制限」になります。

最後のひとりになるまでデスゲームが終わりません(突っ込みどころです)

ジョナサンと仲間たちそして何故か巻き添えを食らってデスゲームに付き合うことになったニューヨークチームは懸命にラフプレイだらけの試合を繰り広げます。

観客は狂喜乱舞です。

ラフプレイで次々と退場していく選手たち。(時間無制限、ファールのペナルティなしなので当たり前です)

そして終盤になるとジョナサンと敵チーム2名しか残っていません。バイクもボーボーと燃え盛っています。

敵の2名をなんとか下し、ボールを確保したジョナサンはゴールにボールをねじ込みます。

そして湧き上がる観客。鳴り止まぬジョナサンコール。敵対していた会社の社長は苦々しげに会場を後にします。

ジョナサントラックを巡りラストカットでジョナサンのアップになって映画は終わります。

 

普通のスポーツ映画なら「ジョナサン大勝利!やったね!」という感じでしょう。「ロッキー」なら間違いなくロッキーのテーマが流れています。

 

しかしこの映画はそんなベタなドラマは描きません。

 

実際、映画を観ても「ジョナサンやったね!」という印象を受けないシーンになっています。

その原因はラストカットまでジョナサンが無表情であること。そしてジョナサンの顔のアップの時に鳴り響くのが「トッカータとフーガニ短調」であることです。

 

トッカータとフーガニ短調」は「チャラリー」という旋律で有名な曲です。実際の旋律はWikipediaのページでも確認することができます。(たぶん「ああ、あれね」とピンとくると思います。出だしの旋律が特徴的な有名な曲です)

トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565 - Wikipediaja.m.wikipedia.org

 

この映画ではオープニングでも使用されています。

なぜロッキーのテーマのように感動的な大団円を象徴するような曲ではなく悲壮感漂う曲が流されるのでしょうか?

 

私が考えるにそれはこの映画の結末が悲劇だからではないでしょうか。だからジョナサンも笑顔を見せずに無表情なのだと思います。

 

ではこのラストシーンの悲劇性はどこにあるのでしょうか? 一見すると決勝戦も勝利しジョナサンも生き残ってめでたしめでたしというように見えます。

しかしジョナサンの主目的は優勝することだったのでしょうか?

あらすじでも書いた通り、この映画はジョナサンと引退を要求する会社との対立を描いたものでした。

それをジョナサンの目的だとすると、実は決勝戦で勝とうが負けようが、どちらでも構わないのです。

ジョナサンが求めていたのは「ローラーボール」を続けていく自由でした。

しかしジョナサンは結局、会社によって歪められたルールの試合でプレイし、最後に確保したボールもゴールに入れることしかできなかったのです。

そのように考えると柵の外の自由(会社にとやかく言われず試合を続けていく自由)には全く届かず、結局は柵の中での自由を行使することしかできない。そんな自分の限界に気づいたことが、この映画のラストシーンに込められているように思います。

 

そして社長もこの対比として描かれます。

先述のあらすじでは「Wikipediaのあらすじによれば有名になったジョナサンの影響力を危惧したためとのこと。」と書きましたが、これ多分違うんですよね。

他社ならともかく自社のチームの選手が影響力を持つのは喜ばしいことではないでしょうか? 大谷選手を絶頂のときに辞めさせようとする経営者はいないか無能だと思います。

ではなぜ社長はジョナサンに引退を要求したのか?

それは私が考えるに私情だと思います。その私情とは「たとえ柵の中だとしても自由を謳歌するジョナサンが許せなかったから」ではないでしょうか?

企業のトップとして君臨している社長。それは「柵の外での自由を満喫する存在」のようにも見えます。

しかし(少なくともこの映画では)社長の自由は描かれません。むしろ不自由な存在として描かれます。

それはジョナサンを引退させることができないほど。またジョナサンを引退に追い込むために試合のルールを変えようとしても重役の合意を得られないと変えられないほどに。

 

ジョナサンを「柵の中の自由を越えられない存在」、社長を「柵の外の不自由を象徴する存在」として考えると、本作は「自由なんてない、あったとしても仮初のものだ」というテーマが含まれているように思います。

 

そしてそれは「トッカータとフーガニ短調」の旋律にふさわしい悲劇だと思いませんか?

 

以上「ローラーボール」の感想でした。

突っ込みどころ満載のスポーツを主軸にしつつ、物質的な充足を迎えた人類にとっての自由をテーマにしたカッコいいドラマに心が震える作品でした。

 

今回はここまで。

実を言うと社歌斉唱シーンで痺れました。SFアイデアはこういう具合に入れてくれると心揺さぶられます。

それではまた次回。