今日は休日でした。
今回は最近読み終わった『スローターハウス5』(著:カート・ヴォネガット・ジュニアさん 訳:伊藤典夫さん ハヤカワ文庫)について書いていきたいと思います。
※ネタバレを含みますのでご注意ください。
『スローターハウス5』は捕虜となりドレスデン無差別爆撃を受けた著者自身の戦争経験を交えた半自伝的な長編です。なぜ「半」なのかと言えば、作中で主人公であるビリー・ピルグリムはトラルファマドール星人の誘拐されて、彼らの星の動物園に収容されるなどの創作エピソードも含めて語られるからです。
そしてビリーはトラルファマドール星人から時間の本質を学んだ結果、地球人のように過去から未来へと時系列的な縛りなく、自身の主観を彼の生存した時間内で自由に移動させることができるようになりました。
本作はそのビリーを中心に物語が進むため、時系列が複雑に入り乱れる構成になっています。このあたり、『メッセージ』というタイトルでも映画化された『あなたの知らない物語』というSF小説に登場する「セプタポッド」という宇宙人に似た認知構造ですね。
わたしはトラルファマドール星人だ。君たちがロッキー山脈を眺めるのと同じように、すべての時間を眺めることができる。
このようにトラルファマドール星人の認知構造を聞くと、われわれ地球人は「未来のことが予測できる」という風に思ってしまいますが、そうではないみたいです。事実トラルファマドール星人は彼らのミス(彼らのパイロットが間違ってスイッチを押してしまう)で宇宙が終わることを知っています。しかしそれを防ぐことはできないと語ります。
「それを知っていて」と、ビリーはいった。「くいとめる方法は何もないのですか? パイロットにボタンを押させないようにすることはできないのですか?」
「彼は常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ。われわれは常に押させてきたし。押させつづけるのだ。時間はそのような構造になっているんだよ」
おそらくトラルファマドール星人は、四次元的な存在ではないかと思われます。われわれ地球人が三次元(高さ、幅、奥行き)空間を自由に行き来することができるように、トラルファマドール星人は時間内を自由に行き来することができる、そんな存在ではないでしょうか。
ではなぜ本作がこのトラルファマドール星人のエピソードも含めて、時系列を奇妙に組み替えた構成で語られたのか、それは「辛い」や「悲しい」などの言葉では表現できない、戦争体験(ドレスデン爆撃)を表現したかったからではないかと思いました。
ドレスデン爆撃は、戦争やそれを起こした時代の大きな流れの上に起きた出来事です。それに対して個人は抗う術を持ちません。(それはトラルファマドール星人が宇宙の終わりを防げないように)
数十万人の犠牲者を出したドレスデン爆撃を含む戦争という圧倒的な「苦」に対峙した時、仏教的な無常観での脱却を試みることも困難だと思います。
このような状況に際してトラルファマドール星人という超常の設定を用意することにより、この戦争体験の表現を試みたのが今作ではないでしょうか。
トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものはこの特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの時間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
ーーそういうものだ(So it goes.)。
本作でも繰り返し繰り返し使用されます。「そういうものだ」トラルファマドール星人はそういうのでしょうが、トラルファマドール星人ではない地球人の私たちはどう感じればいいのでしょうか? この小説を読んで、そんなことを考えされられました。
今回はここまで。
それでは、また次回。