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映画『マイ・エレメント』感想 ビジュアライズされた偏見

今日も仕事です。

今回は「マイ・エレメント」の映画を観たので、その感想を書いていこうと思います。

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※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください

 

「マイ・エレメント」の世界は、水や火などのエレメントを擬人化した世界のお話です。主人公の「エンバー」は火のエレメントの女の子、相手方の「ウェイド」は水のエレメントの男の子。この二人を中心にエレメントの交流などが描かれています。

 

この作品の魅力はビジュアライズされた偏見だと思います。

舞台となるのはエレメント・シティという架空の都市です。映画の冒頭は「エンバー」の両親がエレメント・シティに移住してくるシーンから始まります。

このシーンで駅の壁画が映し出されるのですが、そこには各エレメントたちが、「エンバー」の両親と同じようにエレメント・シティに移住してきて街を作り上げた歴史が描かれています。

冒頭のこのシーンで示されているように、これは「アメリカに移民してきた人たちが作り上げたニューヨーク(エリス島)」と酷似しており、エレメントは移民(人種・民族)のメタファーであることが分かります。

 

ここまで見ると「人種差別がテーマかな?」と思ってしまいます。しかしこの映画の面白いところは、ステレオタイプな人種差別を描いたものではなく、その先を描いているところだと感じました。

「エンバー」の両親の時代は、エレメント間の差別は存在しておりました。例えば両親がエレメント・シティで住居を探すシーンでは、「火はお断り!」と言われて、どこにいっても家を借りることができないというシーンがあります。

このシーンは一見すると「火は燃えるから」という断る側にも正当な理由があるように思われます。しかしその後、両親は廃屋に住み着くことになるのですが、その家は燃えたりしません。というところを考えると、「火は燃えるから」という理由には正当性を欠き、差別であったと解釈できるでしょう。

 

しかし娘であるエンバーの時代になると、このような直接的な差別は描写されなくなります。おそらくは「エレメント間での差別はいけないこと」という共通認識が普及しているのでしょう。ただ差別はなくなったとしても偏見自体は残っています。例えば「エンバー」が、他のエレメントが住む地域に行くときは「燃やさないように」と身を縮こめます。また他のエレメントも直接的な動作は行わないものの、エンバーに対し燃えてしまわないか気をつけなくてはいけない「鬱陶しさ」を感じているような表情を浮かべています。

このような描写が「差別はいけないこと」という共通認識がある上でも、偏見を持ってしまう私たちの似姿であり、この点においてこの作品は現代性を獲得していると感じました。そしてそのような偏見について「火だから燃えそうなので距離を置く」という、わかりやすいビジュアルに落とし込んでいるところが、本作の白眉的なところだと考えます。これほどわかりやすい偏見がありますでしょうか!

エンバーに対して好意的に接しているウェイドでさえ、中盤までエンバーに触れないように露骨に距離を取るシーンも描写されています。

 

そんなウェイドもある出来事をきっかけに、エンバーに対して恋心を抱くことになります。そして「火だから燃える」という偏見を越えて、エンバーと触れ合いたいと考えるようになります。

ウェイド(水)が蒸発してしまうかもしれない、エンバー(火)が消えてしまうかもしれない。そのように恐れながらも手を合わせるエンバーとウェイドのシーンはとても感動的です。

手を合わせた二人の手のひらでは蒸発が起こっていますが、二人が心配したようなことにはなりません。

「こんなものか」と肩透かしを受けたようなウェイドの表情には、この作品のテーマが集約されているように感じました。

 

ただ残念なのはこのテーマと映画の構成がずれてしまっているところだと思います。

上記の「手を合わせるシーン」はテーマ的な見どころだと思うのですが、これが映画の中盤で描かれます。

その後、映画としての見どころがありクライマックスへと進んでいくのですが、上記の「手を合わせるシーン」の後なので、どうしても蛇足的です。この構成部分について惜しいなと感じてしまいました。

 

少し構成に残念なところがあるものの、全体通した絵作りやアイデアは、とてつもなくすごいものがあり、十分な見応えがあります。現代に蔓延る偏見の寓話として、とても面白い作品だと感じました。

 

今回はここまで。

それではまた次回。