Idiot's Delight

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映画『ラ・ラ・ランド』ラストシーン 3つの解釈

今日も仕事です。

今回は映画『ラ・ラ・ランド』という映画について書いていこうと思います

 

※ここから映画のネタバレを含みますのでご注意ください。

 

映画『ラ・ラ・ランド』はデイミアン・チャゼス監督のミュージカル映画です。夢を追ってハリウッドに来たミア(エマ・ストーン)とセブ(ライアン・ゴズリング)が出会い、恋をして、けれども互いの夢を追いかけるために別れていく。ラストシーンではそれぞれ夢をかなえたミア(女優になりたい)とセブ(ジャズ・バーを開きたい)が、セブが開いたジャズ・バーで再会し一時の夢想を共有しますが、また別れていく。そんなお話です。

 

私はこの映画のラストシーンに3つの解釈ができると思っています。

 

【一つ目の解釈】ミアとセブが再会して、あったかもしれない二人が一緒にいるという未来を共有して、それでも現実に戻っていく(せつない!)

 

一番最初に見た時は、私も上記のようにラストシーンを解釈しました。おそらく普通にみるとこのような解釈になるのではないでしょうか? しかし以下の腑に落ちないところもありました。

 

(A)「二人が一緒にいる未来」がミアに都合よすぎないか?

(B)演奏が終わったカットでセブの真っ黒な横顔はどういう意味なんだろう?

 

「二人が一緒にいる未来」を共有したというシーンだとして考えると、(A)は双方夢を諦めていないと釣り合いが取れていないと不自然だと思います。しかし該当するシーンではミアは女優になる夢を叶えて、セブだけが夢を諦めてミアについていくというシーンとなり、腑に落ちません。

また(B)についても真っ暗な横顔は「二人が一緒にいる未来」を共有した後の切なさは漂っておらず、冷酷さや絶望などを感じさせるカットで、ミスマッチのように感じます。

 

腑に落ちなかった二点について、考えてみた結果、私が辿り着いたのが次の解釈です。

 

【二つ目の解釈】セブからミアへの告解!「僕は本当はこうすることもできたけど、しなかったんだ」(つらい!)

 

ラストシーン(二人が一緒にいる未来)のシーンでは、ジャズ・バーを経営するセブの店にミアが訪れて、セブが演奏に合わせて開始します。

つまり「一緒の未来」はセブの演奏によって、ミアに見せている夢だと考えることもできるのではないでしょうか?

そう考えると、(A)についても納得ができます。セブがミアに見せている未来なのですから、ミアに都合がよくて当然です。そして(B)の冷酷や絶望が見える真っ黒な横顔のカットも納得ができます。そんな(ミアにとって)都合のよい未来を、セブは選択しなかったのですから。

なぜなら「自分にも夢があるから」。そしてミアよりも夢を優先したから。

しかしこの解釈にも以下のように腑に落ちない部分が残りました。

(C)なぜセブとミアが出会った瞬間にキスしているのか?

(D)なぜ古風なミュージカル調のシーンになっているのか?

 

(C)は「二人が一緒にいる未来」のシーンでセブとミアは出会った瞬間にキスをしています。でもこれは一つ目の解釈でも二つ目の解釈でもおかしい。一つ目の解釈の場合ですと、二人は出会いこそ最悪のものの、そこから恋に落ちて蜜月の時を過ごします。そこから別れてしまうので、「もしあそこで別れなければ」と夢想するのはわかるのですが、「出会った瞬間キスしていれば」とはなかなか思われないのではないでしょうか。二つ目の解釈の場合ですと、ミアとセブが出会うシーンでセブはミアのことを認識しておりません。(話かけてきたミアを目をくれずに無視している)認識もしていない出会いの場面で「キスすれば」と夢想することができないと思います。

(D)は『ラ・ラ・ランド』のその他のミュージカルシーンは有名なオープニングシーンを含めて、それまでのミュージカルを卓越する、ものすごいシーンで構成されています。しかしこのラストシーンおんミュージカルはセットで撮られたある種古風なミュージカルのシーンになっているのです。なぜラストの一番大事なシーンで、あえて古風なミュージカルなのでしょうか?

 

またまたこの二点について考えて、新たな解釈に至りました。

 

【三つ目の解釈】二人が別れたのは”お前ら”(観客)のせいだ! だってそのほうが面白いだろ?(こわい!)

 

(C)についてミアもセブも、あそこでキスシーンは望んでいなかったと書きました。では誰が望んでいたのか? それは「観客」ではないでしょうか。ミアとセブの物語を追っていた観客にとって、それぞれの夢を叶えたとはいえ別れた二人を見るのは辛い。それくらいなら「出会った瞬間キスしてずっと一緒にいてほしい!」。この映画をみながらこのように感じていた人もいるのではないでしょうか? (私もその成分がありました)

しかし(D)です。そのシーンをあえて古風なミュージカルで構成しており、あたかも「そんなものは古い!」と両断しているようではないでしょうか? そして「一緒じゃない方が面白いだろう?」という囁きが聞こえてくるようです。(それを否定することはできません)そこにはエンターテイメントの業、面白いためなら犠牲を惜しまない。そんな姿勢が垣間見えるようです。

 

以上、ラストシーンに関する私なりの三つの解釈でした。

 

デイミアン・チャゼス監督の作品に通底して「犠牲による感動」があるのではないかと思っています。(『ラ・ラ・ランド』では、演者を犠牲にしてせつなさを。『バビロン』では観客を犠牲にしてかっこよさを)次の作品では何を犠牲にして、どんな感動を与えてくれるのでしょうか? とても楽しみです。

 

では、また次回。