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映画『レヴェナント:蘇えりし者』感想 死んでも逃れることができない価値観という亡霊

今日もお休みです。

今回は映画『レヴェナント:蘇りし者』という映画を観たので、その感想を書いていこうと思います。

 

※以降ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

私はこの映画のメッセージを『たとえ死んでも土着の価値観(亡霊)から逃れることはできない』と解釈しました。

 

映画はレオナルド・ディカプリオさん演じるヒュー・グラスというハンターの復讐劇です。グラスはトム・ハーディさん演じるジョン・フィッツジェラルドに息子を殺されてしまいます。その現場を目撃しつつも、グラスは熊に襲われ重傷を負っていて、止めることができませんでした。息子を殺した犯人への復讐を果たすため、怪我で思うように動かない体を(文字通り)引きずって、フィッツジェラルドを追い、最終的に復讐を果たします。

このようにお話の大筋自体はシンプルな復讐譚です。しかし物語の途上では、キリスト教的モチーフや先住民の価値観などを表すシーンが多数登場し、西洋的な物質主義的価値観を揺さぶられる構成になっています。

ラストカットでは復讐を果たしたグラスが、じっとカメラを覗き込むシーンで終わります。これはグラスという主人公が観客に対して、「俺は間違っていたのか?」と問いかけているように感じました。このラストカットの問いかけにどのように応えるか? がこの映画のメッセージ性だと思います。グラスは何を間違ったのでしょうか?

 

この問いかけに答えるためには、おさえておくべきポイントが大きく二点あると思います。

 

まず(1)「グラスには先住民に対する好意的な親近感があった」ということです。

グラス自身のセリフとしては発せられませんが、(1-a)「息子は先住民との間に生まれた混血児である」と、(1-b)「先住民と生活を共にしていた期間がある」は映画の回想シーンとしても映し出されており、(1)は想像するに難くないと思います。特に(1-b)の状況、つまり「西洋人が一人だけ先住民に混じっている」という状況になるためには、おそらくグラスは先住民に命を救われているというケースもあったかもしれませんね。(遭難したグラスを先住民が救ったなど) 西洋人のハンター集団の中でグラスは頼りにされつつも、疎外感を覚えているようにも見えます。

 

次に押さえておきたいポイント、というかこれは私の妄想補完になるのですが、2)「先住民の娘を攫ったのはフィッツジェラルドである」ということです。

映画の開始シーンはグラスがヘラジカを仕留めるために発砲するシーンから始まります。そしてその銃声を聞いたフィッツジェラルドが不機嫌になります。銃声によって先住民に気づかれることを懸念したためです。そしてフィッツジェラルドの懸念どおり、先住民が襲ってきます。

このシーンは映画の冒頭であり、まだ登場人物の状況を知らないので、そういうものかと流してしまいそうになりますが、映画を見終わった後に考えてみると、やや不自然です。グラスは(フィッツジェラルドが気づくレベルの)先住民に襲われるリスクに気づかないでしょうか?映画を見ているとわかるのですが、グラスは基本的に用心深く慎重な人物です。なぜこのような人物が不用意に発砲をしてしまったのでしょうか?

これを考えると、私の中にある可能性が生まれました。それが(2)です。これを是とするなら、「娘を攫って先住民に追われていること」を知っていたフィッツジェラルドは用心深くなり、グラスはその事実を知らなかったから発砲してしまったと違和感なく解釈することができるのではないでしょうか。

 

この(1)(2)を念頭においてラストシーンを観ると、ただの復讐劇や「復讐はダメ」などのありふれた倫理観によらない解釈ができると思います。ラストシーンは以下のような流れで構成されています。

(A)ついにフィッツジェラルドを追い詰めたグラス 二人の決闘

(B)死闘を繰り広げる二人 ついにグラスはフィッツジェラルドにとどめをさそうとする

(C)そのとき川の下流に先住民の姿を見る。

(D)グラスは復讐は神に委ねるという先住民の言葉を思い出す

(E)グラスはフィッツジェラルドを川に流す

(F)川下の先住民はフィッツジェラルドを引き上げて頭の皮を剥ぎ殺してしまう

(G)先住民の集団にはグラスが救った先住民の娘がいて、グラスの横を通りすぎる

(H)森の中で死んだはずの妻の姿を見る

(I)妻は笑いながら、森の奥に去っていく

(J)グラスは見送った後、カメラに向かって視線を送る

普通に見れば、「グラスは復讐しようとしたけど、思いとどまって天に任せることにした」「グラスは娘を救っていたので先住民に助けてもらった」「妻は笑って成仏した」。みたいに解釈できると思います。しかし前述の(1)(2)を念頭にすると、どうなるでしょうか。

まず(C)で登場する先住民は、グラスと同様フィッツジェラルドを追っていた復讐者」になるでしょう。

そして(D)について、グラスの心底からの判断ではなく、先住民に感化された結果として取ってしまった行動のように見て取れます。

ラストシーンより前に、グラスが夢の中で息子と再会するシーンがあるのですが、その場所は「崩れ落ちそうな教会」です。おそらくは先住民との生活の上で価値観が揺さぶれている結果、グラスの中の信仰心が欠けているということを表しているのだと解釈しましたが、それでもグラスの深層心理のフォーマットは「教会」であると解釈することもできます。このような解釈が成り立つのであれば、「神に委ねる」という判断はグラスの心底からの判断ではなく、先住民に感化された結果として見て取れるかもしれません。

となると(F)は、ただ単に「殺してしまった」というわけではなく、グラスが出来なかった復讐をいとも容易く実行する先住民とも見れます。グラスの判断は所詮、西洋人の先住民かぶれな思想であり、それとこれとは別なのだ。そんな風に言っているようにも見えます。

(G)は娘を救ったおかげとも見えますが、目的はフィッツジェラルドなので、グラスはどうでもよい存在であったから命を奪わなかっただけなのでしょう。

そして(H)(I)について、妻は笑いながら森の奥へ去っていきます。このシーンでは「去っていく」という点がポイントだと思います。例えば「成仏」を表現するなら、「笑って消える」というシーンになると思います。しかしこのシーンでは笑いつつも「去っている」のです。これは「グラス」をその場に残している。という意味合いが含まれているように思います。笑って認めながらも、グラスを残して行ってしまう妻。あたかも「まだまだですね」と言いたげだなと感じました。

以上が、(1)(2)を念頭にした場合のラストシーン解釈例です。

 

このように解釈するとラストカット(J)のグラスのカメラ視線「俺は間違っていたのか?」についても回答できるように思われます。

私の解釈として「先住民への好意により、自分が本当は支持している生まれ持った土着の価値観を蔑ろにした。その代償の”自分が果たすべき復讐”まで感化された価値観で逃れようとしたことの罪」ではないでしょうか。

そしてそこから敷衍するに、この映画のメッセージは「生まれた土地の価値観を尊重できない人間は、他の価値観を認めることはできない」という多様性に流れて”他”を認め、”自”を優先できない社会への警句になっているようにも感じました。

映画のタイトル「Revenant」は「亡霊」という意味なのですが、「重傷を追って復活してきたグラス」を指していると同時に、「尊重されなかった土着の価値観」も指しているように感じます。

 

以上、映画『レヴェナント:蘇えりし者』の感想でした。独自の妄想的な解釈を多分に含みますが、私の中では違和感ない解釈は上記のものです。みなさんはいかがでしょう?

 

今回はここまで。

それではまた次回。