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映画『オッペンハイマー』感想 「原爆は悪い」だけじゃない 私たちの「愚行と苦悩」の物語

今日はお仕事です。

Fallout76 I am become  deathクリアしました。

さて今回は映画『オッペンハイマー』の感想について書いていこうと思います。

映画『オッペンハイマー』公式|3月29日(金)公開www.oppenheimermovie.jp

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

昨日の日記でも軽く触れたことについて、自分なりに纏まったので詳しい感想を書いていこうと思います。

 

まだ公開直後なので、以下の感想で補完する前に、ぜひ劇場に足を運んでみてください。とてもよい映画です。都合があえば「ドルビー」での視聴をお勧めします。出来るだけ大画面で、出来るだけよい音質の劇場で見るべき映画だと思います。

 

では感想を書いていきます。

 

冒頭のミスリード

映画の冒頭はプロメテウスの物語がエピグラフとして挿入されます。メモなど取っていないので正確ではないですが、以下のような文章です。

プロメテウスは神から火を奪って人間に与えた

その罰でプロメテウスは永遠に拷問されることになった。

このエピグラフと「原爆の父」に伝記映画というフォーマットによって、この映画は「原爆を作ってしまった罪とその苦悩について描かれている」というような印象を抱いてしまいます。

しかしこれはミスリードだと思います。

本作は一見するちそのような映画のようにも見えますし、事実「苦悩」は描かれてはいます。しかしそれは「原爆」というものにフォーカスしたものではなく、もっと抽象的(アブストラクト)な苦悩です。よって1940年代の伝記映画というフォーマットを取りつつも、現代に通じる、むしろ現代的ともいえる普遍性を獲得していると思います。

ではどのような苦悩なのかについて以降で説明していきます。

 

オッペンハイマーの帽子の意味

その前にちょいと小噺としてオッペンハイマーは被る帽子について書きます。

映画の予告カットでも印象的なオッペンハイマーが被る帽子ですが、これには我々日本人が抱く「帽子」以上の意味があります。

オッペンハイマーユダヤ人です。ユダヤ人が被る「帽子」にはキッパと呼ばれる民族衣装があります。そしてそれは「頭上に存在する神に対する謙遜」を意味すると言われています。

ja.wikipedia.org

よってユダヤ人にとって「帽子を被る」という行為は宗教的な意味合いを持ちます。

劇中、オッペンハイマーは帽子を被ったり外したりしますが、ここをおさえて視聴すると本作をより深く理解できると思います。

 

本作の構造 強い吸引力を発生させるストーリーテリング

本作を大きく分けると以下の3部構成です。

第一幕:原爆実験に至るまでのオッペンハイマー

第二幕:原爆実験から投下

第三幕:戦後

第一幕ではかなり細かくカットが割られ、時系列も無茶苦茶に語られます。そのために観客に対して、集中力を要する構成になっています。

しかし第二幕、第三幕と終盤に向かうにつれ、物語は時系列順に収束し、ある種の謎解きを含めたミステリー的な快感を伴うストーリーテリングに変わっていきます。(時間計測していないので正確には不明ですが、体感として1カットの時間終盤に進むにつれて長くなっているように感じました)

普通ならカットが多くて時系列もバラバラだと、理解が追いつかずにだれてしまうものです。

しかしそこはクリストファー・ノーラン監督のうまいところで、「理解できるギリギリ」を攻めて、映画への集中力だけを獲得している構成になっていると感じました。その構成についても本作の見どころだと思います。

 

原爆実験シーンの「愚行」

この項より本作のテーマに関して触れていきます。

まずは「原爆実験」のシーン。私が本作で一番おもしろいと感じたシーンです。

オッペンハイマーとロスアラモス(原爆開発)メンバーたちが、いよいよ原爆を実際に爆発させてみるシーン。

爆発前は非常に緊張感漂うシーンですが、実際に爆発するシーンは無音、そしてオッペンハイマーたちはその爆発に見惚れるように描かれています。

このように本作では「原爆(の爆発自体)は美しいもの」として描かれているのです。

そして無音を突き破るような爆音が鳴り響き、実験成功に喝采するシーンへと続きます。

(ここでオッペンハイマーは「帽子を外している」ところは着目すべきでしょう)

このシーンだけでも、怖気がくるような美しさと続く爆音にて「原爆の二面性」をうまく表現している特筆すべきシーンだと感じました。科学の粋(すい)としての美しい現象と、激烈な破壊行動という二面性です。

 

しかし本作ではそこで留まりません。

 

この後、原爆が実際に投下され、その成功をオッペンハイマーが壇上に立ち、メンバーに伝えるシーンがあります。

この時点でオッペンハイマーは原爆の威力とその罪悪について自覚しています。しかし長年の研究に従事してくれたロスアラモスのメンバーにその罪悪を告げることができず、「成功だった」と原爆投下を称賛します。

ただこの「オッペンハイマーが称賛する」シーンを本作では常に重低音が鳴り響き、画面のオッペンハイマーも「揺れる」形で描写します。(本作の最初のほうで、オッペンハイマーは「(共産主義とか関係なく)揺れ続けたい」というセリフがあるのですが、このシーンでは意地悪くもそのセリフと映像的に韻が踏まれています)

壇上で称賛するオッペンハイマー。揺れ続けて重低音が鳴り響く演出は、ひどく緊張感を伴うものです。そして会場は光に包まれます。これは実際の光ではなく、オッペンハイマーの妄想としての光なのですが、その光は静寂に包まれ、ある種の美に満たされています。そしてその静寂を突き破るような割れんばかりの喝采が会場から溢れてオッペンハイマーは意識を現実に取り戻します。

このシーンの緊張感→静寂(美)→突き破る爆音は、先の原爆実験シーンと同じ構造でオーバーラップさせたものです。このシーンは原爆に対する二面性はスピーチのシーンでも「同じ構造」にあることを示しているのだと思います。

つまり本作は「原爆という苦悩」を取り扱ったものではなく、その構造を抽象化して「二面性に気づかずに熱狂する民衆」を愚行として、それに対する苦悩を取り扱っているものだと思います。

 

オッペンハイマーの「苦悩」

ここまでですと、抽象化されたとは言え、結局は「原爆」の苦悩じゃないか、と思ってしまいますが、本作はもう少し踏み込んで語っています。

なぜならオッペンハイマーの苦悩について「肯定」していないからです。つまり彼の苦悩を批判的に描いていることが本作の主題に繋がっているように思います。

劇中でオッペンハイマーは「苦悩」します。しかしその苦悩に対して劇中では徹底的に「肯定」しないのです。

例えばオッペンハイマーは自身の罪悪感について劇中で2名の人物に告解します。(おそらくはオッペンハイマーにとって神と見なされる人物)

一人目は大統領。原爆開発の功により大統領との謁見が叶ったオッペンハイマーは、大統領に対して「自身の罪悪感」を吐露します。それまで好好爺然としていた大統領は、その告解を聞くと突如として憤然します。「落とされた国の民たちが憎しみを向けるのは作ったお前じゃない。落とした俺だ」そういうと大統領はオッペンハイマーを部屋から追い出してしまいます。

もう一人は「アインシュタイン」です。ここのシーンの描き方はなかなか特殊で一見すると「苦悩の批判」には見えません。

まず映画の序盤にオッペンハイマーアインシュタインが話している、そしてその後にアインシュタインが憤然とした表情を浮かべながら、その場を立ち去る。何を会話したのかはわからない。という形で描写されます。そしてラストシーンで二人の会話が描かれて、実はオッペンハイマーは罪悪感についての告解をしていたとわかる構造になっています。なのでさらっと見るとラストでオッペンハイマーが罪悪感の告解をして終わっているので、あたかもそれ(罪悪感に対する苦悩)が本作のテーマのように見えます。しかし序盤のシーンを繋げて考えれば、オッペンハイマーの告解を聞いた後に、アインシュタインは憤然としてその場を立ち去っているのです。

このように告解を聞いた二名とも実はオッペンハイマーの苦悩には共感を示していません。

またオッペンハイマーは投下後にどのような被害があったのかを告げるロスアラモスの会合にて、被害状況のスライドを一目見ただけで、あとは目を逸らし続けます。

(ほかにもまだまだありますが)このように本作では彼の苦悩に対して「慰め」や「共感」などの肯定を与えず、絶えず批判的に取り扱っています。この点において本作は「原爆という愚行に対する苦悩」を取り扱ったものではなく、その苦悩にすら批判性を向けているのです。

 

本作の隠された主題 私たちの「愚行と苦悩」の物語

以上より本作は「原爆という愚行と苦悩」だけを取り扱ったものでは無いと思います。本作はこれに関連させつつ、もっと抽象化させたものをテーマに有しているのではないでしょうか。

私が考えるに本作のテーマは「二面性に気づかずに熱狂する民衆という愚行と、その二面性に気付きながらも見て見ぬふりして空虚な苦悩に耽るインテリ」という「あやまちを生む構造」自体に批判を向けることがテーマだと思います。

そしてそれは「原爆」という二十世紀最大のあやまちだけに成立するものではなく、現在の諸問題においても見え隠れする人類の歴史に通底する「あやまちの構造」ではないでしょうか。

その点において本作は普遍性を持った「私たちの物語」として成立していると思います。

 

以上、「オッペンハイマー」の感想です。

 

今回はここまで。

映画っていいもんですね。

それではまた次回。