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映画『シェイプ・オブ・ウォーター』感想 醸し出される〇〇の醜悪さ

今日はお仕事です。

職場でも体調不良の方が多い今日この頃。しっかりした休息が必要ですね。

さて今回は映画『シェイプ・オブ・ウォーター』が面白かったので、その感想を書いていこうと思います。

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

まずはあらすじ。

舞台は1960年代のアメリカ。ソ連の冷戦状態にあり宇宙開発競争真っ只中な時代です。

主人公は発話障害のあるイライザという女性です。彼女は映画館の屋根裏チックな部屋に住み、隣に住んでいる年老いたゲイの絵描きの面倒も軽く見つつ、近くにある宇宙センターで夜勤の清掃員として働く地味な生活を送っていました。イライザは際立った特徴もそんなにないのですが、一点だけ首の両側に3本の細長い傷があります。

 

その宇宙センターにある日、南米アマゾンで見つかった半魚人が運び込まれます。その異形な存在は宇宙に人を送り込む上で有益な何かがあるのではないかという思惑です。

研究者は半魚人を大事な研究サンプルとして扱おうと思いますが、半魚人の管理を任された軍人あがりのストックランドは彼を家畜のようにぞんざいに扱います。そして上層部のいうがまま半魚人を解剖することを決めます。

そんな半魚人に一目見た時から惹かれていたイライザは彼を宇宙センターから逃すことを決意し、協力者と共にそれを実行に移します。そして宇宙センターか半魚人を救い出すことに成功し自宅のバスタブに匿うことになります。

管理を任されていたストリックランドは責任を追求され、血相をかえて半魚人の探索に乗り出します。

自宅に匿っている半魚人と愛を深めるイライザ。しかしバスタブは半魚人にとって窮屈で、彼は次第に衰弱していきます。

イライザは半魚人を海に帰すことを決意します。

 

ある雨の日、イライザは桟橋で半魚人に別れを告げます。しかしそこにストリックランドが現れ、半魚人とイライザを銃で撃ち抜きます。

半魚人は自身の怪我を神秘的な力で直した後、ストリックランドに逆襲して首を掻っ切ります。

その後、イライザを抱き抱えて桟橋から川へと飛び込みます。

水中でイライザの傷を癒す半魚人。そして水中で息を吹き返すイライザ。イライザの首の傷跡はエラだったのです。実はイライザも半魚人的な存在でした。

水中で抱き合うイライザと半魚人。そのシーンで映画は終わりを迎えます。

 

以上、あらすじでした。なんとも不可思議な物語ですね。

この映画のテーマはなんでしょう?

 

一見すると「半魚人と人間のせつないラブストーリー」のように見えます。この映画は恋愛ものなのでしょうか?

 

私は違うと思います。この映画はラブストーリーとして観ても、あまり面白くありません。なぜならラブストーリーとして盛り上げるために必要不可欠な要素を欠いているからです。

 

その要素とは「恋愛の不可能性」です。

 

「異形とのラブストーリー」ものをいくつか例で考えてみるとわかりやすいと思います。例えば「美女と野獣」や「リトル・マーメイド」みたいな作品です。

これらの作品では共通して「異形だから恋愛できない葛藤」が描写されます。「野獣」だから、「人魚」だから人間とは恋に落ちることができないというストーリー、これが「恋愛の不可能性」です。

この「恋愛の不可能性」が描写されるため、それを乗り越えて成就する恋愛にカタルシスが生まれてラブストーリーとして盛り上がるものになります。

 

では「シェイプ・オブ・ウォーター」の場合、どうなっているかというと、この「恋愛の不可能性」について不自然なほどに描写されません。

まずイライザは異形の半魚人に対して、ほとんど一目惚れします。普通は「怖い」「おぞましい」みたいな描写を入れそうなものですが、そんな描写は全くありません。

周囲の人に半魚人と付き合っていることを告げても、周りの誰も半魚人と付き合うことに対して否定しません。

極め付けは隣に住んでいる老人です。自宅に匿った半魚人がバスタブから抜け出して老人の猫を食いちぎるシーンが劇中にあります。

もうラブストーリーとか関係なく、普通は半魚人に対して怒りを露わに糾弾しそうな場面です。

しかし老人は「それは半魚人の本能だから仕方ない」とすんなり受け入れて、イライザと半魚人の恋を止めたりしないのです。

このように本作では不自然なまでに「恋愛の不可能性」を描写することはありません。その不自然さは「ラブストーリーとして成立させること」を拒否するような意志さえ感じられるレベルです。

よって本作はラブストーリーとして成立していない(させてない?)と思います。

 

では、この映画のテーマはなんなんでしょうか?

私が考えるに、それは「アンチホラー」ではないかと思います。

 

まあ「アンチホラー」というのは、私がいま作った造語なんですけどね。

「ホラー」とはお化けや怪物などの異形のものの醜悪さ、おぞましさで恐怖感を煽るものだと思います。

ここで言う「アンチホラー」とはこの逆です。何が逆かといえば、醜悪さ、おぞましさを醸し出しているものが異形のものとは逆という意味です。

 

どういうことかを説明するために、まずそもそもなぜ半魚人なのか?について説明します。

 

Wikipediaによると本作の半魚人は『大アマゾンの半魚人』という映画から着想を得たということです。この映画では半魚人とヒロインは結ばれませんが、もし結ばれるなら? というアイデアが本作の元になっているとのこと。

 

しかし『大アマゾンの半魚人』と『シェイプ・オブ・ウォーター』ではプロットがかなり違います。なので私は『大アマゾンの半魚人』はきっかけ程度に過ぎず、下敷きになった作品は他にあるのではないかと考えました。

そしてたどり着いたのはクトゥルフ神話の『インスマウスの影』です。

 

インスマウスの影』にも半魚人のような異形の存在が登場します。作中の主人公はその異形の存在の醜悪さから嫌悪感を抱きますが、やがてその異形の存在の血が自分にも流れていることを知り、最終的には異形のものと行動を共にするという筋書きです。

この主人公は実は異形のものの血が流れていることがわかるという筋書きって、本作のラストでイライザが半魚人とわかる筋書きと似てませんか?

 

インスマウスの影』はホラー作品で醜悪な異形のものの血が自分にも流れていることに対して悲劇的なカタストロフィが込められています。

本作シェイプ・オブ・ウォーター』はこの『インスマウスの影』をラブストーリーにぐるりと大転回してアンチホラーに仕立て上げたものではないかと考えました。

そしてこの大転回により、異形のものに付着していた「醜悪さ」が別のものにつくことになったのではないでしょうか。

 

それは何か? それは“異形”の反対、“普通”です。

本作は「普通」や「まとも」の醜悪さを表現することがテーマだったのではないかと私は考えます。(この意味合いでアンチホラーという造語をつくりました)

 

このような考えで本作を振り返ると、結構「普通」とか「まとも」に対して批判的な描写が多いことに気づきます。

 

例えば冒頭のシーン。

冒頭は眠りにつくイライザが目覚まし時計のアラームで目覚めて、お弁当のサンドイッチのためにゆで卵を茹でます。ゆで卵を茹でている最中にイライザは入浴しますがその時バスタブで自慰行為に耽ります。

このシーンについて地味な独身女性の日常を表すシーンとも観てとれますが、それだけじゃないと思います。

このシーンは睡眠、食事、性行為という人間の三大欲求が歪んだ形で充足されているシーンとしてみることも可能ではないでしょうか。

睡眠、食事、性行為。これらを自己完結的に充足できるようになった都会の「まとも」な生活。しかしそれは歪んだ形での充足です。

イライザは夜勤清掃員なので睡眠から起きるのは朝ではなく夜です。食事もゆで卵みたいなものに偏っています。性行為の自慰で相手は不在です。

このように冒頭のこのシーンから、都会の「まとも」な正解の中にある歪みを演出することで、「まとも」の醜悪さを表現しようとしていたのではないでしょうか?

 

もっとわかりやすいのは軍人あがりのストックランドのシーンでしょう。

半魚人を逃した責任を追求されるストックランドに上司は「まともな男はミスしない男だ」と告げます。この言葉を真にうけて無理な追跡を行ったストックランドは最終的に命を失います。このシーンなどは端的に「まとも」の醜悪さが窺えるシーンだと言えるでしょう。

また彼の家庭にも「まとも」の醜悪さが潜んでいます。

彼の家族は、まさに理想的とも言えるまともな家族です。ストックランドを慕う可愛い子供たち、ブロンドで美人の妻。まるで広告のような人も羨む家族が描写されています。

しかしストックランドは家族の前では常に無表情で、終始憮然な態度をとります。

理想的な家族を前にした態度としては違和感を覚える演出です。

ただ劇中ストックランドは黒髪で地味で美人とはいえないイライザのことを「かなり好みのタイプ」だと告白するシーンがあります。

これを含めて考えると、彼は自分の好みより「まとも」であることを優先して理想的な家族をつくったものの、それに全く満足していないということを示す演出として憮然な態度をとっていたのではないでしょうか?

そこまでまとも」に固執することは醜悪と言って差し支えないでしょう。

 

このように振り返ると(上にあげた例以外にも)本作は「まとも」「普通」に対して批判的な描写が多いことがわかります。そしてそれはこそがこの映画の本質ではないかと考えるわけです。

つまりこの映画のテーマについてまとめると以下の通り。

インスマウスの影』という「異形」の醜悪さを描いたホラー作品を、ラブストーリーにするという大転回を行い、「まとも」の醜悪さを描いたアンチホラー作品に仕立て上げた作品

このように考えると、単なる「半魚人と人間のラブストーリー」には出すことができないテーマ性が含まれているように思えませんか?

 

以上、『シェイプ・オブ・ウォーター』の感想でした。

 

今回はここまで。

ぶっちゃけ本作の良さはテーマうんぬんより画面の見応えにこそあると思います。

それではまた次回。