今日はお仕事です。
今回も前回に引き続き『タイタンの妖女』の感想について書いていこうと思います。
※以降ネタバレを含みますので、ご注意ください。
前回までの記事で以下二点について触れました。
(1)「既成概念を否定して新たな神話」を成り立たせているところ
(2)「その神話を冗談として揶揄し、人間としての生き方を問い直している」
今回は上記の流れを踏まえると、エピローグはどのような解釈ができるかについて書いていこうと思います。私はこのエピローグで語られる物語にこそ、本作のテーマが込められているように感じています。
(前回までの記事はこちらをご参照ください)
まずエピローグの内容について説明する前に、触れておきたいエピソードについて書きます。
それは本作の主人公のひとり、マラカイ・コンスタントがウィンストン・ナイルズ・ラムファードと初会合時のエピソードです。
前回の記事でも書きましたが、マラカイは全米一の大富豪です。しかしその富は彼の才覚から生じたものではなく、彼の豪運によってもたらされたものでした。
彼は父親より、ある特殊な投資方法を引き継ぎ、その投資により莫大な富を築きます。その投資方法とは「聖書に書かれている文字通りに投資する企業を決める」という非常に簡単かつまったく根拠のないものでした。ただその投資方法でマラカイは巨大な富を得ることになるのです。
物語の冒頭、ラムファードとの初会合時に、その幸運はなんのおかげか聞かれたマラカイは以下のセリフを発します。
さあね。たぶん、天にいるだれかさんはおれが気に入っているんじゃないかな
このセリフは自分の富は神の加護として受け取っており、そのことに対する義務や責任を感じていないマラカイの傲慢な姿勢が表れているセリフだと思います。
その傲慢さゆえに、マラカイは受難者として、新たな公平な時代の否定的なアイコンに祭り上げられてしまうのです。最終的には(前回の記事でも触れましたが)妻ビーと息子クロノと共に、タイタンへ追放されます。
そしてエピローグでは、タイタンに取り残された3人についての物語が明かされます。前回、前々回の記事で触れた解釈を含めると、マラカイ、ビー、クロノが取り残されたタイタンは、あらゆる価値観から解放された土地と解釈することができるのではないでしょうか。
ではこの流れを踏まえると、エピローグで語られる物語はどのように解釈できるでしょうか?
エピローグの解釈のポイントとして大きく三つを挙げられます。それは「クロノの選択」、「ビーの言葉」、そして「マラカイの最期」です。
まず「クロノの選択」について。
マラカイ、ビーの息子クロノはエピローグでは、「タイタンつぐみ」(タイタンに生息する鳥類)の群れと生きていくことを選択します。動物の生活に身をやつす。そこだけを切ると、悲劇的であるようにも思われます。事実、マラカイとビーは、タイタンに到着した当初「クロノだけでも地球に帰そう」と尽力します。行く末の長いクロノには、地球人と一緒に送らせる冪だと考えていました。
しかし結局は(10代の少年だったクロノも、40代となったこともあり)クロノの選択を受け入れます。
母親のビーはクロノの選択について、以下のようなセリフを発します。
すくなくとも、あの子は、このあたりでいちばん気高く美しい生き物の仲間になるだけの、心の大きさを持っているわ
このセリフにはペシミスティックな情感は込められてはいますが、「クロノの選択」を肯定しようとする意志も伺えます。
クロノはタイタンに着くまで抑圧的な環境での生活を強要されておりました。そのため彼は人生に対して、どこか投げやりな姿勢を常に取ってました。しかしタイタンで見せた彼の選択、タイタンつぐみと共に生きるという選択は、母親のビーも「気高く美しい」と認めるものでした。
一見悲劇的なクロノの選択ではありましたが、このように考えると美談として受け入れることができるのではないでしょうか。つまり、あらゆる価値観の束縛から解放されたクロノが選択したのは「気高く美しく生きる」ことだったのです。
そしてそれは社会(価値観)の中で、そのように生きることができない私たちにとって、ある種の皮肉にもなっており、その点において非常に大きな感動を覚えました。
「大人として」、「社会人として」、「上司として」、「部下として」。
私たちはかくもさまざまな価値観に束縛されて生きています。その中で「気高く美しく生きる」ことは、なかなかできません。あくせく生きるのに精一杯です。
だからこそクロノの「気高く美しく生きる」という選択は輝いて見えるのではないでしょうか?
以上、「クロノの選択」についてです。
本当は「ビーの言葉」「マラカイの最期」まで本記事で加工と思ったのですが、すでに長くなりすぎているようにも思われますので、次回に譲りたいと思います。
今回はここまで。
それではまた次回。