今日はお休みでした。
今回は『タイタンの妖女』(著:カート・ヴォネガット・ジュニアさん 訳:浅倉久志さん ハヤカワ文庫)を読了しましたので、その感想を書いていこうと思います。
※以降ネタバレを含みますので、ご注意ください。
本記事は読了直後に書いているのですが、とんでもなく面白い作品でした。
面白いと感じたのは、まず「既成概念を否定して新たな神話」を成り立たせているところ。普通の小説であれば、これで十分面白いと言えるでしょう。
しかし本作では「その神話を冗談として揶揄し、人間としての生き方を問い直している」ところが、非常に素晴らしく感動的だと感じました。
物語はウィンストン・ナインズ・ラムファードとその愛犬カザックが時間等曲率漏斗に飛び込んで、時間的空間的に”散って”しまったことから始まります。
文章で書いてしまうと難しいのですが、「時空間を超越した」とか、「すべての時間、すべての場所に存在することができるようになった」などと言い換えれば、少しはわかりやすくなるでしょうか?(そうでもないでしょうか?)
これは『スローターハウス5』の主人公、ビリー・ピルグリムと同様の設定であり、物語を構成する上での著者の癖かもしれません。
ラムファードは作中も、折に触れて”単時点的(パンクテュアル)”という表現を用います。時代の流れの中に生きるしかない我々が、それを超えた物語を求めるときに、”単時点的(パンクテュアル)”でない視座を獲得するために、時空間を超越した存在を設定する必要があるのかもしれません。
そしてこの時空間を超越したラムファードは、人々を導いてある計画を進めます。その計画の途上、物語は私たちの既成概念を否定していきます。
1章の冒頭付近で以下の文章。
教訓ーー財産、地位、健康、美貌、才能がすべてではない。
非常にシンプルな一文で、現代の社会が求めてやまないものを、軽やかに総ざらいにして否定します。
この否定を皮切りに、物語では様々な既成概念を否定していきます。例えばラムファードが作中に生み出す新たな宗教について。
この新しい宗教の名は、<徹底的に無関心な神の教会>という。
この協会の旗の色は青と金とになるだろう。その旗には、青地に金文字で、こんな言葉が記されることになるだろう。ーー人びとをいつくしめ、そうすれば全能の神はご自分をいつくしまれる。
無性の愛を与えてくれるはずの神を「無関心」と設定すること。これは愛の否定と言えるのではないでしょうか。
また水星でボアズが発する以下のセリフでは、わかりやすく自由の否定を行なっています。
それからおれは、自由になるんだぞと自分にいいきかせた。そして、それがどんなことなのか考えてみた。おれの見えるのは人間どもだけだった。やつらはおれをこっちへ押しこんだり、あっちへ押しのけたりするーーそして、なにをやっても気にくわず、なにをやっても幸せになれないものだから、よけいにカッカする。
(中略)
なんでおれは人間どもがうじゃうじゃいるところへ自由になりにいくんだ?
このように本作では、我々の社会で根本的で不可侵と思われる「愛」と「自由」を否定するという衝撃的な展開が繰り広げられます。
そして数々の否定の上で、ラムファードに導かれた人類は新たな世界を構築します。それは優れたものが進んでハンディキャップを受け入れるような公平な社会です。
普通なら、ここで終わりとしても良いところです。現代社会の価値観を否定することにより時代の批判性を獲得し、新たな世界の提示を行う。物語の役割としては十分でしょう。
しかし本作はここでは終わりません。その続きがあります。
が、その続き部分の感想は次回に譲りたいと思います。
今回はここまで。
それではまた次回。