Idiot's Delight

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読書『スラップスティック』感想 愛のルネッサンス

串カツが好きです。近くのお店でたまに売り出される「衣がガジガジ」のタイプが好物。特に「ししとう」や「玉ねぎ」がおいしい。油もさっぱり目なのでガジガジとした衣と一緒に野菜を食べるのが美味しくて好きでした。

 

今回はカート・ヴォネガットさんの『スラップスティック』感想を書いていこうと思います。

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

本作の特徴的なアイデア「人工拡大家族」でしょう。主人公のスウェイン医師は緑死病で人口減を招く世界でアメリカ合衆国大統領に就任します。そして彼が行った施策が「全ての人にランダムにミドルネームをつけて同じミドルネームを持つものを“家族”にすること」でした。ミドルネームは「動植物名や鉱物など-数字」という形式でそこに意味はない前提です。主人公のミドルネームは「ダフォディル-11」。ダフォディルは「黄水仙」の意味で、花言葉「自己愛」です。彼の妻はたいそうな名家の出だったのですが「ピーナッツ-5」というミドルネームをつけられて憤慨します。主人公も思わず笑ってしまいます。

 

前回の記事では「感想」として端的に「愛の否定」と書きましたが、より正確に表現するなら「愛のルネッサンス(復興)」でしょう。カート・ヴォネガットさんの作品には「個人で抗うことができない大きな時代の流れにどのように対面するか?」というテーマがあるように見えます。それはカート・ヴォネガットさん自身の戦争体験に起因するものでしょう。(このあたりは「スローターハウス5」に詳しく)

本作『スラップスティック』では戦争などに起因する国家という大規模な集団に漂う希薄な「愛」というものを否定しているように感じます。

主人公「ウィルバー」には「イライザ」という双子の姉がいます。二人にはテレパシー能力みたいなものがあり、二人が額を合わせると知能が劇的に上がります。二人は額を合わせたときの二人こそが本当の自分たちで、額を離した時の自分たちは本当の自分ではない別の人間だと、額を離した時の二人に別の名前をつけるほどでした。(「ウィルバー」は「ボビー・ブラウン」、「イライザ」は「ベティ・ブラウン」)

主人公と「イライザ」が離れる時、主人公に「愛している」と言われたイライザは以下のセリフを発します。

「それは人に、たぶん本心ではないことをいわせる仕掛けなんだわ。だって、そういわれたらわたしにしろ、だれにしろ、”わたしも愛してる”という以外に、そんな返事ができて?」

(中略:イライザに「僕を愛していないのか?」と尋ねるウィルバー)

「だれがボビー・ブラウンを愛せると思うの?」

別れを惜しむ主人公同様に「イライザ」も別れを惜しんでいます。しかし「愛している」という言葉は否定します。これは言葉という距離のある希薄な「愛」ではなく、身体接触を伴う近距離での密接な「愛」の希求を表していると思います。

 

また主人公が大統領に就任しミドルネームの付与が終わった頃、ある町で行われた「十三番クラブ」という会合に参加しようと試みます。この会合はミドルネーム末尾が「13」のメンバーのための会合です。大統領である主人公はその会合に入れてもらえないかと受付に確認するとひどく猥雑な罵倒を受けます。その罵倒を受けて主人公は「恍惚」の表情を浮かべます。これも「国家単位での希薄な愛」が否定された瞬間を表し、それを理解したため「恍惚」の表情を浮かべていたものと思われます。つまり人口拡大家族という施策は国民の友和を強化するという目的ではなく、国家の解体(より小規模なコミュニティへの返還)が目的であったのでしょう。

 

このように本作の主題は「愛の否定(国家規模での希薄な愛情関係の否定)」と「愛のルネッサンス(家族のような小規模での密接な愛情関係への復興)」だと感じました。このように考えるとラストに主人公の孫が「人工拡大家族」の手を借りながら本当の家族の元へと辿り着く道程は感動的です。そのような感動をタイトル「スラップスティック」(ドタバタ喜劇)にあるようにユーモラスな文体で語られる物語には、何かひどく諦念を含んだペーソスも含まれていると感じました。

 

以上、感想でした。

 

福満しげゆきさんの漫画をずっと読んでいます。また「ソンビ取りガール」みたいなのも読みたいです。

また次回。