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読書『タイタンの妖女』感想(5終) 幻想を断ち切る物語

今日もお仕事です。

天気が悪い日が続いて嫌になりますね。鬱々とした気分を吹き飛ばすようなブログにするのは別に目的ではないのですが、今日も頑張って書いていこうと思います。

 

今回も前回に引き続き、『タイタンの妖女』の感想について書いていこうと思います。今回で5回目です。長々と書いてきましたが今回でひとまずラストにします。(まだまだ語り足りませんが……)

 

前回の記事はこちらをご参照ください

akutade-29.hatenablog.com

 

※以降ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

今回はエピローグ最後の「マラカイの最期」についてです。私はここですごく感動しました。どのような解釈で感動したのか、そして『タイタンの妖女』はどんな作品だったのか、それを書いていきます。

 

まずはあらすじ。

タイタンに追放されたマラカイは、そこで長い年月を過ごすことになります。息子のクロノも離れビーも死んでしまいます。ひとりになったマラカイの元にトラルファマドール星人のサロが現れます。

サロはひとり残ったマラカイを地球に戻してあげることにしました。ただ年老いたマラカイを案じたサロは、せめて人生の最後の数秒間を大喜びできるようマラカイに催眠術をかけます。

サロはマラカイが望む場所に連れて行ってあげます。それはインディアナポリス州のとあるバス停のベンチです。時間は午前三時、大雪の夜でした。

「十分ほど待たなきゃいけない」といってサロはマラカイのもとを去ります。しかし大雪でバスは大幅に遅れ結局マラカイはバス停のベンチで息を引き取ります。その時サロがかけた催眠術でマラカイは一時の夢を見ます。それはマラカイが求めて止まなかった親友がマラカイを迎えに来るという夢でした。親友はマラカイを宇宙船に乗せて天国に向かいます。本当に天国に行けるのかと問うマラカイに対して親友はこう答えます。

天にいるだれかさんはお前を気に入っているんだよ

 

なかなか感動的なラストですね。

しかし解釈を加えるともっと感動的になります。

ポイントはラストのセリフの意味です。

このセリフは物語の冒頭でマラカイが発したセリフに韻を踏んでいます。しかし印象はだいぶ異なるものです。

そして私が思うに、このセリフの意味の違いに本作のテーマが込められていると思います。

 

このセリフの違いについて説明します。

冒頭のマラカイのセリフはラムファードに「君の幸運はなんのおかげだと思う?」に対して応えた以下のセリフです。

さあね。たぶん、天にいるだれかさんはおれが気に入ってるんじゃないかな

全米一の大富豪であるマラカイが自身の幸運について説明した言葉はひどく傲慢なものでした。しかしラストのセリフにはそのような傲慢さは感じられません。

その違いは利己的であるかどうかだと思います。

冒頭のセリフは「俺が大富豪になれたのは神が俺を気に入っていたんだ」という意味合いで使用され、利己的です。しかしラストのセリフにはこのような利己性は含まれていません。

では冒頭のセリフでは何を利己的に扱っているのでしょうか?

それは幻想を利己的に扱っているのではないかと考えます。その幻想とは「神」と「金(カネ)」です。

 

「神」と「金(カネ)」を幻想というと抵抗があるかもしれません。しかし歴史を鑑みるとこの二つの幻想性がわかると思います。

まず「神」について。

神という概念は古代ギリシャにおいて、当時の人々の認知を超えた事象を理解するために創造されたものでした。

現代は科学があるので事象を理解するためには科学的手法が用いられますが、科学がない時代の人々は「わからない」ものを、「わからない」ままにしておくのは怖いので、「とりあえず」神みたいなものを媒介にして理解しようとしました。

例えば「雨が降るのは神様が泣いているからだ」みたいな感じです。

このような考え方を「ミュトス」と呼びます。(何回か前の記事でも書いた通りです)

このように神とは世界を理解するための言ってしまえば一時凌ぎな幻想でした。

次に「金(カネ)」です。

お金というものは歴史のはじめには存在していませんでした。人々は物々交換で、なんとかやっていきました。

しかし人の集団が小さければそれでもいいのですが、集団が大きくなると物々交換が面倒になってきました。例えば酪農で育てた豚と農業で育てた小麦はどのくらいの量があれば釣り合うものになるでしょう?

そこで人々はみんなが欲しがる金(きん)を媒介にして物との交換を行うようになっていきました。

しかし金(きん)を常日頃大量に持ち歩くのはとても大変です。なので金を担保として、「金と同じ価値がある」と「とりあえず」決めたお金(カネ)で物の交換をするようになりました。いわゆる信用貸しみたいなものですね。現代でも「クレジットカード」みたいな名称にその名残があります。(クレジットとは信用という意味です)

このようにお金(かね)も都合よく決めた幻想的なものだったのです。(この辺り詳しくは『望郷太郎』というマンガを読みましょう。人生で大事なことはだいたいマンガに書いてあります)

このように「神」も「金(カネ)」も幻想の産物でした。

 

冒頭マラカイのセリフはこの二つの幻想を自分を正当化するために用います。だから利己的な印象を受けるものとなっています。

ではなぜラストにはこの利己性が消えているのでしょうか?

それはマラカイの物語がこの幻想を断ち切る物語だったからでしょう。

 

マラカイは全米一の大富豪だったにも関わらず没落し全てを失います。これは不幸な悲劇とも見えますが、「金(カネ)」という幻想から断絶したとも考えられます。

またマラカイは地球から弾劾されてタイタンに追放されます。この時マラカイを弾劾したのはラムファードが布教した「徹底的に無関心な神の教会」という宗教でした。この件に代表されるようにタイタンに追放されたマラカイは「神」からも断絶されています。

このようにマラカイの物語が幻想を断ち切るための物語だったと解釈すると、物語のラストを飾るセリフにはどのような意味が含まれるでしょうか?

私が考えるに、それは肥大化した幻想を個人の範疇に納めるものだったのではないでしょうか。

 

「神」と「金」は前述の通り、幻想の産物です。しかしあまりにも長い時間をかけて実効的な運用を続けてきた人類にとってそれはあたかも実在するかの存在感を放つに至ります。

作中の冒頭マラカイもこの幻想を自身の正当化に利用します。そしてそれは(傲慢かどうかはされおくとして)正しく聞こえてしまいます

でも(何度も書いて申し訳ないのですが)「神」と「金」は幻想なのです。

例えばマンガという幻想を正当化するとどうなるでしょう? 例えば『賭博黙示録カイジ』という漫画に登場するギャンブルを実際にやろうとするのはどうでしょう?

すぐに「やばい!」と気づくのではないでしょうか。

※注 わかりやすいようにカイジを例にしましたが、言いたいのは「カイジがやばい」ではなく、「幻想を正当化するのはやばい」です。

しかしこのやばいことが「神」と「金(カネ)」という長時間継続して肥大化した幻想になると正しく聞こえてしまいます。それはマラカイのセリフにも表れていますし、そして現代の至るところでも起きているのではないでしょうか。

 

しかし本作ではこの冒頭マラカイのやばいセリフをラストに再び繰り返します。しかしそこには肥大化した幻想に依拠する正当化などのヤバい思想はなく、あるのはただ個人の(慰みの)ために利用される純粋な幻想のカタチだけです。そしてそれは物語(幻想)が果たすべき本来の役割が込められているように感じました。

幻想を断ち切るマラカイの物語の果ては、あらゆる価値観から解放された上での幻想の扱い方だったのではないでしょうか?

 

以上が「マラカイの最期」に関する私の解釈です。

このように解釈して私はひとり猛烈に感動しておりました。

まだまだ語り足りないところもございますが、今回の記事でひとまず終いにしようと思います。

最後に「タイタンの妖女」はどのような作品だったのか? それを短くまとめると

SFの想像力であらゆる価値観を排除して人間はどのように生きるべきかを問い直す

作品だったと思います。こんなに深いテーマで面白くまとめるのはすごい!と思います。

正しく「文学」で、とんでもなく「娯楽作」。

それが私の『タイタンの妖女』の感想です。

 

今回はここまで。

それではまた次回。