Idiot's Delight

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マンガ『攻殻機動隊』感想 SUPER SPARTAN (11) 14ページ

今日もお仕事です。

デンタルフロスサプリメントなどの買い足しをいつも忘れます。

さて今回はマンガ『攻殻機動隊』の感想の続きを書いていこうと思います。

前回はこちら。

akutade-29.hatenablog.com

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください

 

今回は14ページ目から。13ページで明かされた「学習コース」の実態。その実態を受けて少佐たちはどのように反応するのでしょうか?

 

14ページ

1コマ目 通信切断を示すスノーノイズ

2コマ目 モニターに乗り出すように見つけている少佐 横にはバトーが立っている。

バトー 「はン」

3コマ目 公安職員を叩きつける少佐

4コマ目 「学習装置」だったことを責める少佐とそんな少佐を制止するバトー

少佐 「ありゃただの学習装置だ!ふざけやがって一体どーー」

バトー 「待て」

5コマ目 非常ベルが鳴り響く施設

6コマ目 非常ベルが鳴っていることを指摘するバトーと気にかけない少佐

バトー 「非常ベルだ」

少佐 「だから何だ」

7コマ目 気になることを告げるバトー

バトー 「気になる」

バトー 「切れる一瞬前「捕まったら何もかも終わって楽になる」・・・って感じしなかったか?」

8コマ目 何かに気づく少佐(憮然とした表情)」

 

13ページまでに描写された少年たちへの反応は3コマ目、4コマ目に表れています。端的に書くと「怒る」です。このコマでは「洗脳装置がなかった」ことに少佐は怒っていますが、それは同時に「少年たちの実情」を知っても意に介さないことを示しています。つまり少佐(主人公なので“本作の倫理観の象徴”と言い換えてもいいでしょう)は「施設のスパルタ」を否定しません。ここはその他ヒーローものと本作を隔絶する大きなポイントだと思います。ヒーローものの根底には「弱者救済」の倫理観があると思います。「困っている人、弱い人」は「助けるべき」という考え方です。しかし本作のヒーローである少佐は「怒ります」。それは「洗脳装置」がなかったことに対する怒りですが、子供たち(弱者)にも向いているようにも受け取れます。「弱者であれば厳しくされてもしょうがない」と叱っているようでもあります。ヒーローが弱者救済の倫理観を有しないという点において、2話タイトル「SUPER SPARTAN」を冠するにふさわしいヒーローとも言えますし、その他ヒーローの(ある意味で)「甘い」倫理観も蹴散らすようなヒーロー像だと感じました。

しかし14ページではこのような「鬼軍曹(強者)」としての少佐だけではなく、それに対称的な存在として描かれる人物がいます。それがみんな大好き「バトー」です。「バトー」は怒りを露わにする少佐を制止し気付きを与えます。これについて「直情的な少佐」と「冷静沈着なバトー」の対称とも見えますが、2話以降に見られる「バトー」の描写は「冷静沈着」というイメージはあまりありません。(どちらかと言えば「人情的な人物」として描写されていると思います)ではどのような対称性が潜んでいるのでしょうか? それは私が考えるに「弱者に共感できる」バトーだと思います。4コマ目で少佐は怒りを露わにします。ここにタイムラグなしでバトーが制止している点において、冷静沈着な論理的思考ゆえの気付きではなく、少佐と同様に「直情的」な行動に駆られた結果だと思います。しかしその「直情」は少佐の「怒り」ではなく、「弱者への共感」に向けられたものだと思います。つまり強者すぎて気付けなかった「少佐」と、「弱者」に寄り添うことが出来たので気付きを得られた「バトー」が対称的に描写されているのがこのページだと思います。ここで描かれる「バトー」のイメージは「元いじめられっ子の格闘家」ですね。「鬼軍曹」の少佐と「元いじめられっ子」のバトーという対称性をもって、それぞれのキャラクターを際立たせつつ、「弱者救済では動かない」というとんでもない倫理観を表現しているのがこの13ページだと思います。

 

以上、14ページ目の感想でした。では少佐たちはどのような倫理観で行動するのでしょうか? それはまた次ページ以降で語られます。(直後ではなく少し先です)

 

今回はここまで。

今日は思い出せました(買い足しの件)

それではまた次回。

マンガ『攻殻機動隊』感想 SUPER SPARTAN (10) 13ページ

今日もお仕事です。

我が家ではすでに扇風機が活躍してます。

さて今回はマンガ『攻殻機動隊』2話 SUPER SPARTANの感想の続きを書いていこうと思います。

前回はこちら。

akutade-29.hatenablog.com

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

今回は13ページから。ブリーフィングで公安vs少佐たちの決着(第1ラウンド)が終了し、捜査は施設の核心部に進んでいきます。

 

13ページ

1コマ目 プラグを接続する少佐

2コマ目 通信を表す稲光(ジジという音)

3コマ目 通信先の少年が目を覚ます

4コマ目 学習コースの風景 白目をむいて機械に繋がれている少年たち

5コマ目 少年の様子を不審に思った施設職員が少年に声をかける 横に少佐の顔も描かれる(視覚ハッキングの表現)

職員 「どうした28番!」

6コマ目 頭を抱える少年(28番) 機械から「ピーピー」と警告音がなる

少年 「何か変だ変だよォ」

少年 「宇宙が降ってくるぅ」

7コマ目 少年の歪んだ視界に施設職員(二人)が映し出される

職員A 「おいッ オーバーフローしてるぞッ」

職員B 「落ちつけ!落ちつけッ」

8コマ目 機械の接続を断ち逃げ出す少年

少年 「もういやだァ!!」

 

まず着目すべきは2コマ目。ただ通信接続を表しているだけのコマに見えますが、ポイントは「ジジ」という音です。これは5ページ2コマ目と同様に「少佐の聴覚素子(デバイス)の接触不良」を表しています。(だいぶ昔のことのように感じられますが)まだ8ページしか進んでいませんので、接触不良状態は継続中であることを示しています。

次に4コマ目。「白目を向いている少年たち」の絵はドキリとさせインパクトがあります。このインパクトのため、一見すると「ただならぬことが行われている」や「やはり施設は洗脳していたんだ」みたいな印象を受けます。しかしこの印象は誤読です。それは次のページにある少佐のセリフからも明らかです。

少佐 「ありゃただの学習装置だ!」

なかなかインパクトがあるので「(洗脳みたいな)虐待を受けている子供たち」みたいに見えますが、実は「普通の学習装置」に繋がれているだけなのです。このシーンを現実に置き換えると「普通の学校授業で白目を向いている子供たち」に当たると思います。このように解釈すると、ここでの子供たちの印象はがらりと転回します。「(被虐の意味で)可哀想な子供たち」から「(能力的に劣っているという意味で)カワイソウな子供たち」という転回です。今までの説明でも少佐は「子供たちを可哀想とは思っていない」と書いてきましたが、作品の描写でも「可哀想」に見えるものの、その実、子供たちを「可哀想」とは描写していないことがこのコマよりわかります。(「かわいそう」は「かわいそう」でも弱者への憐憫としての「カワイソウ」)

また「学習コース」が本当にただの「学習コース」だった場合、面白い事実も推測できます。それは本作の世界では「人間」は「肉体労働」くらいしか労働の余地が残っていないということです。前12ページに院長の以下のセリフがあります。

院長 「働くのが嫌なら 学習コースに行け」

12ページの時点で学習コースの実態が明かされていないため、上記のセリフをこのように読み解いてしまいます。

院長 「働くのが嫌なら洗脳するぞ」

「学習コース」は「洗脳」の隠語的表現と受け取ってしまいます。しかし13ページ(および14ページ)で「学習コース」はただの「学習コース」でした。つまり院長の上記セリフは字義に近いものです。わかりやすく言い換えると以下のような意味合いになると思います。

院長 「肉体労働が嫌なら(出来ないなら) 知的教育するぞ」

このような意味合いであると考えると、この作品世界では「知的労働より肉体労働が優位」という観念が普及していることが窺えます。現実の我々からは違和感を覚える観念です。なぜなら我々は「知的労働より肉体労働が優位」という真逆の観念があるからです。なぜこの観念が形成されているかといえば「知的労働が肉体労働より優遇されているから」でしょう。では本作の世界ではなぜ「肉体労働が優位」なのでしょうか? 順列は異なるもの構造は同じく「肉体労働が優遇されているから」でしょうか? しかし本作の世界観は現実の延長上にある世界観であり、産業革命を経験している以上、肉体労働が優遇されるような世界とは思えません。では何故か? それはおそらく「フチコマ(AI)」や「公安職員(アンドロイド)」の存在に起因していると思います。この作品世界では「知的労働」はこれらの機械に奪われているのでしょう。よって「肉体労働」が優遇されているわけではなく、(人間が行う)知的労働の価値が毀損した結果、「肉体労働」の優位性が強まった世界であると推測されます。つまり人間がやる仕事は「肉体労働」しか残っていないという世界観です。SFの想像力で構築された世界観で構築された極上の「皮肉」と「批判」ですね。(生成AI普及前夜の)現在から考えると「風刺」的でもあります。1980年代で現在にリーチする(というより30年ほど経過してようやく理解できる)想像力が込められていることが、マンガ『攻殻機動隊』の凄まじさだと思います。

そして5コマ目から少年(28番)が逃げ出すことで、物語は続いていきます。

 

このように13ページで「被虐の可哀想な子供たち」から「弱者のカワイソウな子供たち」という大転回が行われます。ではそんな子供たちを見た少佐の反応は? それはまた次のページで明かされます。

 

今回はここまで。

夜ご飯は「ワンタンメン」に「ジャワカレー」のルゥを落としカレーラーメンにして食べようと思います。

それではまた次回。

アニメ『響け!ユーフォニアム3』1話感想 波乱暗示の新学期

今日はお仕事です。

すっかり暖かくなってきました。

さて今回は今期から始まった『響け!ユーフォニアム3』の感想を書いていこうと思います。

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

波乱を暗示させる新学期

3年生になった久美子たち、今年こそは全国で金を取ろうと意気込みます。絵としては「つつがなく新学期」を迎えているように見えます。しかし久美子のナレーション部では、そんな「絵」とは裏腹に波乱を暗示させるものになっています。「波乱の予感」は以下のような部分に表れています。

  1. 「3年生になって“しまった”」というセリフ
  2. ラストの常套句「次の曲が始まるのです」の演技が苦渋に満ちたものになっている

(1)の「なってしまった」は「本来はそうするべきではないのに」という文章が省略されていることが察せられます。また(2)の「苦渋に満ちた演技」はそれまでの作品に見られない演技であり、ドキりとさせられました。この(1)(2)より「3」のストーリー展開に波乱が潜んでいることが暗示されていると思います。そしてその波乱は(1)より「大きな後悔」という過失性があり、(2)より「久美子の心情によるもの」であることが推測されます。つまりは「大きな後悔を伴う久美子の過失(ミス)」が今後の展開に潜んでいるのでしょう。

 

ライバル登場? 「合奏」の対決が見られる(かも)

具体的にどのような過失なのかを現時点で開示されている情報から推測することは困難です。しかし「何に関連しているのか?」については推測可能と思われます。それはナレーション部ラストの常套句「次の曲が始まるのです」のシーン(1話ラストシーン)に関連したものでしょう。1話のラストシーンは「渡り廊下でユーフォニアムを演奏する少女と久美子が遭遇する」というシーンです。この少女は北宇治とは異なる制服を着用している点で「他校の生徒」と思われます(転校生の可能性もありますが、その可能性は低いと思います)このラストシーンにかぶさるように「苦渋に満ちた常套句」が流されるという構成になっているため、おそらく「久美子の苦渋」はこの「ユーフォニアムを演奏していた他校の女子生徒」に関連するものと推測することが出来ます。そして「他校のユーフォニアム奏者」からこの女子生徒は「他校の吹奏楽部に所属」していることが推測されます。つまりこの女子生徒は久美子のライバルとして登場していると考えるのが妥当だと思います。

仮にこの少女が「久美子のライバル」とした場合、「作画的にも大きなチャレンジ」を行おうとしているのかもしれません。「響け!ユーフォニアム」シリーズは楽器の演奏シーンが「プロが見ても違和感ないレベル」という定評があります。しかしこれまでの作品では「北宇治」の演奏しか作画していません。もしラストの少女が「久美子のライバル」であり、「3」が「ライバルとの対決」を主軸にするなら「ライバル校の合奏」も作画する可能性があります。そうなった場合、今までの「合奏シーン」に「優劣」を含めた作画が必要になり、一段レベルの高い作画になるかもしれません。個人的にここにすごく期待しています。

 

今後の展開予想

上記のような点を踏まえて個人的な今後の展開を以下のように予想します。

「久美子たち北宇治吹奏楽部は地区予選で敗退する」

1話時点での久美子が有する理想は「全国大会で金賞を獲得する」です。ナレーション部で暗示されている「波乱」はこの「理想」を妨げるものでしょう。今までの作品でも部内の「波乱」はあり、それは久美子も経験済みですので、ナレーションから滲み出る「大きな後悔」に紐づくものではないと思います。そして「ラストシーンの少女」が久美子のライバルであり「3」で対決が主軸になるのであれば、今まで久美子が経験していない「波乱」としてナレーション部で表現される後悔に付合するものと思われます。そして「対決」に関連した「後悔」は「敗北」でしょう。

「ラストシーンの少女」が北宇治に来訪している点にて、「近隣学校の生徒」であることが推測できます。(「はじめの一歩」の千堂のように大阪〜東京間を移動している可能性もありますが、それは本作のリアリティラインを逸脱するようにも思われますので、おそらくは違うでしょう)そして1年生で「全国大会」、2年生で「府大会」敗退している久美子が、「近隣学校生徒」との「対決」で「今までにない後悔」を覚えるのだとしたら「地区大会敗退」もありうるのではないかと予想した次第です。

かなり思い切った展開ですが、実現するとしたらワクワクします。しかし「勇気爆発バーンブレイバーン」で露呈した通り私の予想は当てになりません。「当たらずも八景」の心持ちにて何卒よろしくお願いします。

 

以上、1話感想(予想)でした。

 

今回はここまで

全話感想は書きません。

それではまた次回。

日記 晴れた穏やかな休日

今日はお休みです。

日記のコーナー。

 

モーニング

「HIVE Coffee」さんで「メープルベーコンエッグトーストを頂きました。甘塩っぱい大好き!

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tabelog.com

お出かけ

御所から鴨川沿いを散歩しました。晴れた日で気持ちの良い。

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趣味

スラップスティックと言う小説を読んでいます。カート・ヴォネガット・ジュニアさんです。めちゃくちゃ面白い。『美しくなくて、運が良かった』みたいなセリフが本音で登場します。この作品に出てくる用語ちなんでブログの名前を変えました。(ぴったり!)

響け!ユーフォニアム3』を見始めました。何やらライバル的な存在が出てくるのでしょうか? もしライバルとの対決を合奏の絵で表現するなら、大変なチャレンジだと思います。今後が楽しみ。

Fallout 76』引き続きプレイ中。解釈者クラレンスの「吸い込みなさい」に中毒性を感じています。オートアックスのミュータントが掘れたので帯電つけてメイン武器交代。

ゴーストバスターズ アフターライフ』視聴。ガジェットのデティールの入れ方やアップデートの仕方は、運用していく中で改善されたという地道なリアリティがあって2016年版より好み。

以上でした。

今回も楽しい休日でした。

それではまた次回。

ドラマ『フォールアウト』1話感想 実写化に何を求むるべきか?

今日もお仕事です。

「fallout4」の次世代機アップデートが4/25配信決定とのこと。

さて今回は俄に盛り上がっている「フォールアウト」展開のひとつ、実写ドラマ「フォールアウト」1話の感想を書いていこうと思います。

(なぜかAmazonリンクが出てきません、、、)

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

実写化に何を求むるべきでしょうか?

 

解像度の低い表現(ドットなど)に留まっていた時代のゲームや漫画・小説などの動きな絵が制限されるメディアであれば、単純に「実写で撮った」ことの価値は生まれると思います。

しかし現在のようにゲームの解像度もフォトリアルなレベルまで向上し「まるで現実のよう」という謳い文句が陳腐なものになった時点では、「実写化」による解像度の向上は、それほど価値の創造に寄与しないと思います。

最近「ゲームの映像化」で成功した事例で言えば、「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」が思い当たります。

この作品は「マリオのゲームの面白さ」をそのまま映像化したような愉快な作品でした。任天堂がガッツリ監修した賜物でしょう。ただ「実写ではない」と言う点で「実写の限界」があるようにも思われます。

そういうところも踏まえて私個人として実写化する時に「こうであって欲しいな」という部分を纏めてみました。

(1)CG表現ではうまく表現できないところを実写で表現する

「煙」や「火」または「水」などの表現はまだCGの再現性が実写レベルに及んでいないものだと思います。このあたりを「現実のもの」を利用することで解像度の向上は期待できると思います。

(2)カメラの支配権を十分に活用する

ゲームで「カメラ」はユーザーに支配権があります。よって構図や焦点などの映像表現は「ゲームプレイ」より「カッコいいもの」を生み出すチャンスがあると思います。

(3)ゲームで省略されることを実写化する

例えば「ドラクエ」で「やくそう」を使用する時の演出はゲーム体験として重要ではないのでカットされます。つまり「やくそうを使ったらどのように回復するのか?」という映像はゲームでは表現されない(すると体験が損なわれる)部分なので、このあたりは映像化で価値創出の機会がまると思います。(フォールアウトでいえば「スティムパック」を使うと、どのように回復するのか?みたいな部分ですね)

 

上記のような点が表現されていれば実写化の価値はあると思います。フォールアウトで言えば以下のファンメイド作品が、いろいろ制限ある中で「ゲームの良さ」を表現しようとしている一例と言えるでしょう。


www.youtube.com

というような点を鑑みれば実写ドラマ「フォールアウト」の感想は(私にとっては)「残念な出来」でした。「ひどい」とは思いませんが、「面白い」とも思えないレベルだと思います。

 

今回はここまで。

ゲームの実写化は難しいものですね。

それではまた次回。

映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』公開日発表!予告編からの本編予想

今日もお仕事です。

個人的映画オールタイムベスト20のひとつ『ジョーカー』続編の公開日が発表されました!10月11日です!

ということで今回は公開された『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』のトレーラーから、どういう作品になるかの予想を書いていこうと思います。


www.youtube.com

※以降、『ジョーカー』(前作)のネタバレを含みますのでご注意ください。

フォリ・ア・ドゥの意味

続編タイトルにはナンバリングではなく、「フォリ・ア・ドゥ」というサブタイトルがついています。このサブタイトルをググってみたところ「感応精神病」という意味らしいです。(フランス語で直訳すると「二人狂い」)

感応精神病 - Wikipediaja.m.wikipedia.org

感応精神病、またはフォリアドゥ (仏:Folie à deux、フランス語で二人狂い)とは、精神障害妄想性障害 の一つ。

今回はジョーカーの恋人役的存在の「ハーレクイン」も登場するらしいです。「ジョーカー」(primary)が「ハーレクイン」(secondary)に感応を引き起こすのか、それとも「ハーレクイン」(primary)が「ジョーカー」(secondary)に感応を引き起こすのか、どちらになるのでしょうか? トレーラーだけですと「ハーレクインに唆されて、悪に再覚醒」しているみたいにも見えますが、果たしてどうなるのでしょう。期待、膨らみます。

 

前作はどういう映画?

簡単に言って仕舞えば「弱者を切り捨てると道徳が崩壊するよ!」ということを提示した映画だったと思います。それは現在の資本主義から敷衍した能力主義への批判として成立していたのでしょう。極端な例で言えば、「椅子を置くスペースがない」「椅子にかけるコストがもったいない」などの経営事由による判断を「仕事は立ってするべき」という道徳にした場合、その「道徳」に従う必要があるのか? みたいな疑問を障害があり虚言癖のある母親に育てられた「アーサー(ジョーカー)」を通じて描いた作品だったと思います。(飽くまで私なりの解釈です)

 

今作の予想

いくつかパターンを考えてみました

(1) 前作の批判を回収する→「ハーレクイン」と付き合えてハッピーエンド!

前作は鋭い批判であるものの、「問題提起」で終わっているため、その回収として「ではどうすればいいのか?」を描くという予想です。ストーリーラインとしてはキレイですが、前作で提起した問題が「女性と付き合えば解消する」レベルでの問題として矮小化される可能性が高いので、この筋道はないかなぁと思っています。(トレーラーでも精神科医っぽい人がアーサーに対して「良くなっている」的なことを告げるカットもあり、ということは「最終的に良くならない」ことを暗示しているようにも見えます)

(2)前作「個人(倫理)vs社会(道徳)」を昇華して「最小社会(二人・道徳)vs最大社会(アメリカ・道徳)」の対立にする→「ハーレクイン」と付き合えたけど、問題は解決しない!(さらに深化する)

個人的な本命予想です。アメリカの根本にある「家族主義」を否定し、いままでの道徳を「因習」として切り捨てるみたいなストーリーラインだったらゾクゾクすると思います。

(3)「ジョーカー」(男性)はミスリードで、実は「ハーレクイン」(女性)のお話→ジョーカー(弱者男性)だけじゃなくハーレクイン(弱者女性)が問題だ!

意外なストーリーで時流にも合っていますが、対抗馬(「バービィ」や「哀れなるものたち」)が強いので、意外性というメリット以上の困難さが生まれるようにも思います。

(4)「バットマン」が出てきてヒーローものにする→やっぱりヒーローだね!

そうなると意表をつかれます。しかしエンタメとしては面白そうですが、前作のテーマ性を維持したまま「バットマン」を出すのは至難の業でしょう。(貧弱なバットマンならとも思いましたが、それは(いい意味で)前回の「バットマン」でやってますね)

(5)その他

ぜんぜん脈絡はないのですが、直観として「バニラ・スカイ」やるのかなあ? とも思いました。

前作「ジョーカー」の問題提起を受けて、「バニラ・スカイ」のような認識論を踏まえた上での存在意義を問うみたいな作品だったら面白くなりそうだと思いました。(脈絡なさすぎて完全に妄想ですが)

 

ちょっと不安なこと

最後に「ちょっと不安」に感じること。トレーラーで階段上の「ジョーカー」と「ハーレクイン」が中空にキックを繰り出す場面が一瞬映し出されます。これは前作の有名なシーンと韻を踏んだものだと思うのですが、「二人になりました、すごいでしょう!」みたいな短絡的な商人の顔が浮かんでしまい、一抹の不安が、、、。主演も監督も前作と同じなので、おそらく杞憂でしょう!

 

以上『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』トレーラーからの本編予想でした。なにはともあれ楽しみで仕方ありません。

 

今回はここまで。

このあと実写ドラマ「Fallout」を観ようと思います。楽しみばかりの世の中で嬉しいです。

それではまた次回。

マンガ『攻殻機動隊』感想 SUPER SPARTAN (9) 12ページ

今日もお仕事です。

日差しが明るく風が冷たいくらいが好きです。

さて今回はマンガ『攻殻機動隊』感想の続きを書いていこうと思います。

前回はこちら。

akutade-29.hatenablog.com

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

今回は12ページから。公安と少佐たちのブリーフィングが続いています。このブリーフィングは「情報戦」の様相もあり、少佐たちの公安に対する倫理的、能力的蔑視が込められていることは、ここまで書いてきた通りです。その「情報戦」に決着がつくのが12ページです。

 

12ページ

1コマ目 施設で檄を飛ばす院長

院長 「働くのが嫌なら学習コースに行け 両方嫌なら市民カードは申請してやらん!」

院長 「野たれ死にしたいか!?」

2コマ目 学習コースの噂を述べる少年たち

少年A 「学習コースかあ」

少年B 「ここよりひどくて「正体が抜けちまう」って話だぜ」

3コマ目 悲嘆に暮れる少年 片目から涙を流す

少年 「ああ 何のために生まれてきたんだろう そんなのガマンできないよなあ」

 

1コマ目 この院長のセリフからわかることが4点あります。

  • 労働以外にも「学習コース」が存在する
  • 「学習」は労働より下位の概念として扱われている
  • 少年たちは「市民」として承認されていない
  • 「市民」でなければ生命の保証はない

労働および学習過程を修了しない限り、「市民権」を得られないのは「スパルタ」チックですね。(フィリップ・K・ディックさんの短編「まだ人間じゃない」も彷彿とさせます)ここから鑑みれることは本作の世界は現実より「人権」の運用が限定的であることでしょう。現実では「基本的人権」という言葉からも見られる通り、「生存」に対して付帯条件なく「人権」が付与されます。(建前上)しかし本作は「現実には起きなかった戦争」が起きた世界を描いており、現実のような「人権」の運用が困難になったと思われます。よって「国家に奉仕出来る」という付帯条件がついた上で「人権」が承認される構造に変遷しているのでしょう。(そのため前11ページのセリフでも出てきた「人権擁護局」という存在が必要になるのでしょう。この団体が示すことは「人権が擁護されない可能性を有する社会構造になっている」ということだと思います)

では本作ではそのような社会を否定しているのでしょうか? それは前11ページの少佐の反応と3コマ目を見れば察することが出来ると思います。前11ページでの少佐は「共感」は示すが介入しようとは思いません。また3コマ目の少年の描き方は、「涙」は描いているものの、それはマンガ記号としての涙であり、少年たちの苦難をカリカチュアとして描いています。このように本作は「施設の少年たち」の処遇を「悪だ」と否定しきっていません。一見すると2話は「かわいそうな子供たちを救うためにヒーロー(少佐)が介入する」というお話に見えるのですが、このページでも見られる通り2話はそこを問題として取り扱っていないことがこの12ページ(と11ページ)で提示されていると思われます。

 

4コマ目 学習コースの映像を求める少佐とないと告げる公安職員

少佐 「学習コースの映像は?」

職員 「ないんです」

5コマ目 大袈裟に驚く少佐

少佐 「ない!?」

6コマ目 モニター向こうの荒川を皮肉る少佐

少佐 「聞いたか部長!」

少佐 「いい部下をたくさん持ったな!」

7コマ目 少佐をなだめる荒川 その背後で忙しなく働く公安職員

荒川 「なあ 少佐」

荒川 「いつまでも突っ張っとらんで公安部(うち)に来んか?」

8コマ目 アッカンベーと返す少佐

9コマ目 フチコマより入電

フチコマ 「少佐 ライン4に学習コースの映像入ります」

 

ここが公安vs少佐たちの決着(第一ラウンド)シーンです。いままでも書いてきた通り、ここまでの一連のシーンは単なるブリーフィングだけではなく、公安vs少佐たちの情報戦の様相も含まれています。

5コマ目で少佐が大袈裟に驚いているのは相手を揶揄する意図も含まれていますが、少佐は「学習コース」の映像がないことを把握していたからこそでしょう。ブリーフィングの裏で少佐たちは独自で捜査を行っており、この施設の防御レベルも把握していたため「公安には突破できない」と結論付けていたと思われます。

これが当て推量でないことは、続く9コマ目を見ればわかると思います。少佐たちのフチコマが「学習コース」の映像を繋いでいるシーンです。なぜここにフチコマがいるのかと言えば、8ページ目で少佐がフチコマに命令を出していたからです。(8ページの解説は以下の記事参照)

akutade-29.hatenablog.com

8ページの時点で「少佐は「公安には無理だ」と判断しフチコマに「学習コース」の映像を見れるように指示を出していた」というのが、(セリフには書かれていませんが)この一連のシーンの解釈だと思います。よって5コマ目は相手を揶揄する意図と共に「想定通り公安を出し抜いた」という喜びも含まれているため、このような演技になっているのでしょう。

ここまでの解釈ですと「やったね少佐、大勝利!」みたいに見えるのですが、続く7コマ目8コマ目がこの後の公安(荒川)vs少佐たちの「第2ラウンド」の結末を暗示させる構造になっています。少佐たちに出し抜かれたということは、公安のトップである「荒川」は「顔に泥を塗られた」形になっています。しかし荒川は冷静に少佐たちを公安に勧誘するという「大人の対応」を見せます。(この時、モニターに映る「荒川」の背後には忙しなく動く職員の姿が写っており、「荒川」に余裕がないこともしっかり表現しています)そんな荒川に対して少佐は「あっかんべー」と幼稚な仕草で返します。つまりここで「大人」な荒川と「子供」な少佐という対比構造が生まれており、それは2話ラスト(公安vs少佐たち)の伏線になっています。(また論理的だが幼児性もあるという二面性を表現することで「少佐」のキャラクターが立っているシーンとも言えるでしょう)

 

以上、12ページで語られていることをかいつまんで簡単にまとめると

  • 施設の子供たちは「かわいそう」だけど、それだけじゃ少佐たちは動かないよ!(そこは今回の“問題”じゃないよ)
  • 公安vs少佐たちはひとまず少佐が一本取ったね! でも荒川の大人の態度は少佐より「上手(うわて)」に見えるね!

ということになると思います。

 

では何が問題(少佐たちの正義に反する)なのか、そして公安vs少佐たち第2ラウンドの行方は、以降のページで明かされます。

 

今回はここまで。

最近、豚トロにハマってます。

それではまた次回。