今日も仕事です。
今回は年始の休みに見たというわけではないのですが、昨年見た中で最も面白いと感じた映画のうち一つについて、書いていきたいと思います。
それは映画『バビロン』という作品です。
とても好きな作品なので、一回では語りきれません。
なのでこれから何回かに分けて、この映画をどのように解釈したのかについて書いていこうと思っています。
今回はずばり「この映画はどういう映画なのか」を私なりの解釈で語ります。
※ここから映画のネタバレを含みますのでご注意ください。
私はこの映画のテーマを「大きな感動を生むもの(映画)は、誰も傷つけないということはない」ことではないかと解釈しました。
昨今主流となっているコンプライアンスへの過度な偏重。それに対してこの映画は「そういうもんじゃないだろう? そんなんで感動する作品なんて作れないだろう」というアンチテーゼにもなっているように感じるのです。
映画『バビロン』は無声映画の時代からトーキー映画の時代に変遷する狭間において映画業界に係る人々の人生を描くヒューマンドラマです。
こう書くと古い映画が好きな方なら、「『雨に唄えば』に似ているな」と思われるのではないでしょうか? まさにこの映画と『雨に唄えば』は深い関係があります。私も映画を見ている途中は「これは『雨に唄えば』のリメイクがしたいのかな?」とも思いました。彷彿とさせるシーンがあまりに多く『バビロン』の中に存在するからです。
しかし最後まで観終わると、単純なリメイクなどのレベルではなく、もっとアクロバティックな構成になっていることに気づかされました。どういうことかを映画の大枠の流れと合わせて説明します。
『バビロン』という映画はメキシコ人の青年マニーが主人公です。このマニーが『雨に唄えば』と同じような無声映画からトーキー映画に変遷していく時代を映画のスタッフとして駆け抜けます。
しかしマニーはある事件がもとで映画の街ハリウッドが追放されてしまい、映画業界から身を引くことになります。映画業界から離れたマニーはニューヨークでオーディオ専門店を経営していたマニーは二十年ぶりにハリウッドの街に戻ります。懐かしい街をめぐる最中にマニーは映画館で一本の映画を観ます。そこで上映されていたのが『雨に唄えば』です。
『雨に唄えば』を鑑賞していたマニーは驚きます。あの無声映画からトーキー映画への変遷の時代、自分の青春をかけた時代、そして最後には追放されてしまった時代が如実にスクリーンの中で描かれているのです。
マニーはついには画面を見ることができずに頭を抱えてしまいます。カメラはそのマニーを中心に映していたのですが、マニーが頭を抱えた後、徐々にカメラは引いていきます。そこには目を輝かして笑顔で画面を見入る大勢の観客の姿が映し出されます。『雨に唄えば』という映画に傷ついているのはマニーひとりだけです。
このシーンを見て、ああこのために『雨に唄えば』に寄せていたのか、と思い至りました。「”『雨に唄えば』という名作のコメディでも傷つくやつはいる”を表現するために、リメイクかと思われるほどに寄せたシーンをいくつも用意した」のだと思います。そうすることで(冒頭でも記載した通り)映画という大きな感動(マスの感動)を生み出すメディアにおいて、コンプライアンスが目指すような偏見なく誰も傷つけないことなんて出来はしない、というメッセージを込めたのではないでしょうか。
それを象徴するように続くシーンでは「マトリックス」や「アバター」などの有名な映画のワンシーンが続きます。私には「この映画もそう! あの映画もそう!」という慟哭のようなシーンだと感じられました。
そして映画はまた映画館のシーンに戻ってきます。最後のカットは画面を見て笑うマニーの表情で終わりです。
あれだけ辛い思いをしたマニーも笑ってしまう”魔法”が映画にある。だからこそ人を傷つけることを前提としつつも価値があるんだ。
私はラストシーンをそのように読み取りました。なんというカッコ良いラストシーンでしょうか。思い返すだけでじーんと痺れます。
以上、映画の全体的な私なりの解釈です。
今回はシンプルに記載するためにマニーの話に終始しましたが、映画『バビロン』はいわば群像劇でして”無声映画時代のスター ジョン・コンラッド(ブラッド・ピッド)”や”女優志願のネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)”など様々な人物が登場します。次回は他の人物についても触れていきたいと思います。
本日分は終了です。ではまた次回。