今日もお仕事です。
リュックの胸のところにガチャンコが壊れたせいか、少し肩こりを感じます。しかしお気に入りを買い替えるのが忍びなく、新しいリュックは買えず終い。
さて今回はトロッコ問題について考えてみようと思います。
↑の本、けっこう面白いです。
子供の発想を哲学者の父が答える形なので、わかりやすい。
この本に「トロッコ問題」「臓器移植」の思考実験が登場します。「できれば疑ってほしい」と書かれていますので、この思考実験について自分なりに考えてみたいと思います。
プチ哲学気分にひたりましょう。
まずそれぞれの思考実験の紹介。
(A) トロッコ問題
人を乗せたトロッコが暴走しはじめた。行く手には線路の補修工事をしている5人の作業者がいる。トロッコがそのまま進めば全員が死ぬ。あなたは転轍機(線路を切り替えるスイッチ)の横に立っていて、スイッチを押せば5人を助けることができる。しかし切り替えた線路の先にも1人の作業者がいて、スイッチを切り替えるとその1人は必ず死んでしまう。
あなたならどうする?
(B) 臓器移植
あなたは病院の勤務医である。5人の患者が臓器の移植手術を受けたいと願っていて、いますぐ臓器移植をしないと5人とも死んでしまう。そのとき1人の怪我人がやってきた、腕を骨折していたが命に別状はない。そこであなたにある考えが閃いた。
この怪我人には死んでもらい、臓器を摘出すれば5人の患者の命を救うことができる。あなたは怪我人に許可を求めたが、断られた。
あなたは断られても移植を教皇すべきか?
トロッコ問題は有名なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか?
(A)(B)共に形は違えど、5人か1人かどっちを犠牲にするかを問う思考実験です。
しかし(A)はスイッチを変える(1人を犠牲にする)と答える人が多く、(B)は骨折した人を殺さない(5人を犠牲にする)と答える人が多いとのこと。
どちらも内容が同じ問いにも関わらず、答えが分かれるのはなぜでしょう? またどのようにすれば「正しい」のでしょう?
それを考えるための哲学的な問いかけです。
私の考えとしては以下の通り。
まず「答えが分かれる」点について、これは言語感覚の差ではないかと考えます。
(A) トロッコ問題には派生として「太った男を突き落としてトロッコを止める」という選択肢が提示されるパターンもありますが、その場合多くの人は「太った男を突き落とさない」(5人を犠牲にする)を選択するようです。
まとめると以下の通り。
(A) トロッコ問題
A-1. スイッチを切り替える(1人犠牲)
A-2. スイッチを切り替えない(5人犠牲)
→A-1を選択する人が多い。(1人犠牲)
(A‘)トロッコ問題 太った男派生
A‘-1. 太った男を突き落とす(1人を犠牲にする)
A‘-2. 太った男を突き落とさない(5人を犠牲にする)
→A‘-2を選択する人が多い。(5人犠牲)
(B) 臓器移植
B-1. 骨折人を殺して臓器を移植する(1人犠牲)
B-2. 骨折人を殺さず臓器移植しない(5人犠牲)
→B-2を選択する人が多い。(5人犠牲)
このように答えを並べていると論理的には矛盾しているように見えます。
しかしこれらの解答は、言語もしくは行動に含まれる「殺意」の印象を忌避した結果ではないでしょうか。
1人犠牲の回答である、A‘-1およびB-1(突き落とす、殺す)は言語的に殺意の印象に近いように思います。
しかし同じ1人犠牲でもA-1に関して、殺意の印象が先にふたつに比べてだいぶ薄いものと思われます。
つまりスイッチを切り替えることで1人が死ぬということを頭で理解できていても、感覚的な実感には至っていない、よって殺意から遠い選択肢であるA-1を選択してしまうのではないか、というのが私の仮説です。
A‘-2やB-2も同様に言語感覚の差として考えれば、それぞれ「殺意」から遠い印象の選択をしているという点で統一しているように思われます。
よって「答えが分かれる」という事象に対しての結論は「人は(命がかかるような)極端なケースでは論理より印象を優先する傾向にある」ということではないでしょうか。
では「どうすれば正しいのか」について、この結論を前提として考えてみます。
論理的に正しくはいられない私たちは、どうすれば「正しく」行動できるのでしょう。
議論をするというのも一つの手かもしれませんが、トロッコは止まってくれません。
「答えが分かれる」の説明にて「殺意から遠い印象の言葉を選んでいる」と書きました。このように書いてしまうと、逃げ腰みたいな印象があるかもしれませんが、それと同時に「救いたい」「命を奪いたくない」という意志も込められていると思います。
論理的に正しくはいられないヒトはこの意志を「善」と暫定するしかないのではないでしょうか。
つまり救いたいと思って行動することが「正しい」と暫定するという考え方です。
それが印象に左右される人間がとりうる限界であり、またそれを認めることでこそ哲学に意味が灯ると思います。
以上、トロッコ問題に関する自分なりの考えでした。考えというより感想に近いですね。プチ哲学の限界ということで、お目溢しを。
今回はここまで。
ちなみに私のトロッコ問題への回答は、「路線変更するぞ、よけろ! と叫びながらスイッチを変える」です。
結果は変わらないのでしょうが、それでも叫ばずにいられない。それが善だと疑いながら。
それではまた次回。